田舎教師ときどき都会教師

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苅谷剛彦 著『思考停止社会ニッポン』より。自粛の要請という言い回しも、教員が「自発的に残業している」という言い回しも、非科学的。

 道徳とは共同体のルールである。しかも、そこでの善悪の基準は、時代によって変化し、多数派の価値観や特定のイデオロギーが力を得たりする。時に恣意的でさえある。合理的・合法的判断より情緒的判断が優先される場合も少なくない。
 ここから引き出すことのできる仮説的な結論は、自粛の氾濫は、このように政府の役割を道徳の世界に引き込んでしまったのではないか、という推論である。遠回しの命令を道徳的な空間で通用する自粛に代替することで発揮された(曖昧な)権力の行使である。それゆえ責任の主体はおぼろげになる。
(苅谷剛彦『思考停止社会ニッポン』中公新書ラクレ、2022)

 

 おはようございます。オックスフォード大教授の苅谷剛彦さんが問う「自粛の氾濫」って、教員の「時間外労働の氾濫」と似ていると思うんですよね。よく知られていることですが、文部科学省は、教員が「自発的に残業している」という立場を一貫してとり続けています。先週、私が土曜日なのに出勤したのも「自発的」なものだし、昨日、私が1時間も早く学校に行ったのも「自発的」なものというわけです。残業代はゼロなのに。試しに「自発的」の意味をネットで検索してみると、

 

 他からの命令などによらず、自分から進んで事を行うさま。

 

 そう出てきます。では「他からの命令などによらず」の「など」に《遠回しの命令》は入るのでしょうか。そんな疑問を抱いてしまうのは、常日頃から「遠回しの命令を道徳的な空間で通用する『自発的な残業』に代替することで発揮された(曖昧な)権力の行使」を受けていると感じているからです。そうでなければせっかくの休日に出勤したりしません。責任の主体がはっきりとしていれば、文句の一つも言いたいところです。しかし、言えない。おぼろげだから、言えない。そこで思考が停止します。まさに、

 

 思考停止社会ニッポン。

 

 

 苅谷剛彦さんの新刊『オックスフォード大教授が問う  思考停止社会ニッポン  曖昧化する危機言説』を読みました。本の帯に書かれていることをまとめれば、ロングセラーとなっている『知的複眼思考法』の著者が、「空気」「平和ボケ」「鎖国」「同調圧力」「自粛」などのキーワードをもとに、日本人の思考の習性(クセ)を検証した一冊(!)となります。苅谷さんといえば、教員にとっては『大衆教育社会のゆくえ』や、大村はまさんとの共著『教えることの復権』などが定番でしょう。前著『コロナ後の教育へ』も興味深く読ませていただきました。

 

www.countryteacher.tokyo

 

 目次は以下。

 

 プロローグ 「鎖国」の記憶
 第1部 日本とイギリスの境界から
  1章 イギリスで過ごしたステイホームの2年間
  2章 帰国そして第1次隔離生活(12月19日~26日)
  3章 第二次隔離生活(12月26日~1月3日)
 第2部  「内向き」日本とコロナ禍・ウクライナ
  4章  「自粛の氾濫」から考える日本
  5章 人材の「鎖国」
  6章  〈アンビバレンス〉とともに生きる道
 エピローグ 日本文化論を超えて

 プロローグの「『鎖国』の記憶」には、哲学者・和辻哲郎の『鎖国 ー 日本国の悲劇』が引かれています。日本が敗戦したのは《科学的精神の欠如》によるものだった。そしてその欠如は鎖国がもたらしたものだった。同じ島国のイギリスが長い年月をかけて科学的精神を形成したのに対して、日本は鎖国によって近世の動きから遮断され、科学的精神を形成することができなかった。そこで、

 

 オックスフォード大教授が問う。

 

 もしも和辻いうところの《科学的精神の欠如》が日英のコロナ対策の違いとして現われたのだとすれば、その違いは「鎖国」の記憶がもたらしたものといえるのではないか。「鎖国」のようにイメージ喚起力の強い「知識」が、知らず知らずのうちに日本人の認識の枠組みに隠喩的な影響を与えているのではないか。苅谷さんはそのような問いを切り口に、日本人の思考の習性に迫ります。

 

 それは国境管理や入国制限といった水際対策だけに限らない。コロナ禍やウクライナで始まった戦争が喚起した日本の「安心・安全」に関しても、私たちの認識を枠づけるイメージが知識の在庫から呼び出されてきた。あるフレーズ(たとえば「自粛」「平和ボケ」)が喚起するイメージをそれ以前の経験と無自覚に(あるいはなんとなく)結びつけ、その喚起されたイメージによって「現実」が認識され、隠喩的に理解される。その影響関係を何とか取り出してみたい。

 

「鎖国」や「自粛」、「平和ボケ」のようなフレーズが日本人の知識の在庫にある記憶を呼び出し、その記憶がメガネとなって現実を隠喩的に理解させているのではないか、という問い。ポイントは、直喩ではなく隠喩というところでしょう。隠喩的に理解されるからこそ、責任の主体が曖昧になるというわけです。

 で、この知的すぎるプロローグの後に、著者が実際に経験したイギリスでのステイホームの2年間が綴られ、さらに日本に帰ってきたときの隔離生活がフィールドノートというかたちで綴られ、まさに前著『コロナ後の教育へ』に書かれていた、現場からの帰納が展開されます。オックスフォード大教授が現場で体験し、見えてきたものはといえば、以下。

 

 私の体験から見えてきたのは、日本の水際対策の機微であり、そこに示された日本社会の特徴である。科学性の厳密な適用やそれを支える徹底した合理主義、その合理性に見合った法的強制力をともなう政策というより、「清濁併せのむ」二項対立の絶妙な超越あるいは接合 ―― 後の議論を先取りすれば「アンビバレンス」(価値の両義性)―― そして、それを受け入れる政治、行政、日本社会。隔離生活を終えた時、本当に日本に帰ってきたのだと実感したのは、これらを確認する機会を14日間の隔離生活が与えてくれたからだ。

 

 逆にいうと、イギリスでは《科学性の厳密な適用やそれを支える徹底した合理主義、その合理性に見合った法的強制力をともなう政策》がとられていたということです。

 

 日本は、そうではない。

 

 大江健三郎さんの言葉を借りれば、依然として「あいまいな日本の私」だし、価値の両義性という観点から眺めれば、立憲民主制と天皇制いうアンビバレンスな原理が併存するような「清濁併せのむ」あいまいな国です。自衛隊と憲法9条も然り、給特法と教員の時間外労働も然り。苅谷さんは「自粛」「鎖国」「平和ボケ」といったイメージ喚起力の強い「知識」を例に挙げて、それらの言葉が使われるようになった小史を参照しつつ、そのあいまいさが形づくられていった経緯を丁寧に紐解いていきます。

 

 それが第2部。

 

 冒頭の引用は第2部の4章 「『自粛の氾濫』から考える日本」からとったものです。自粛ははたして要請できるものなのか。教員が自発的に残業をしているという文部科学省の言い回しは、自粛要請、自粛緩和、自粛解除といった表現と同じようにおかしくないか。そのおかしさを許容してしまっているニッポンは、未だに科学性精神が欠如しているのではないか。読むと、わかります。

 

 思考停止から抜け出すために、

 

 ぜひ一読を。