田舎教師ときどき都会教師

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苅谷剛彦 著『コロナ後の教育へ』より。不透明な時代だからこそ、現場からの帰納を。

 このような演繹型思考で組み立てられた教育政策は、「現場に下ろす」ことが不可避となる。それゆえ、現場の理解が求められ、理解を進める「周知・徹底」が教育改革の重要な役割を担う。政策がうまくいかないのは、「周知・徹底」がうまくいかなかったからか、教育現場がその趣旨を十分に理解できなかったからか、「理解していること・できることをどう使うか」に習熟できなかったからだとなる(このカギ括弧で示した部分は学習指導要領で児童生徒の学習に関連して使われる表現である)。「これまでの教育実践の蓄積」を帰納することで、政策を立てるという発想にはならない。だから、実態把握(帰納のための知識の基盤)を欠いたままでも次々と教育政策の言説は生産できる(改革神話の自己増殖!)。
(苅谷剛彦『コロナ後の教育へ オックスフォードからの提唱』中公新書ラクレ、2020)

 

 こんばんは。昨夜、フェデリコ・フェリーニ監督の『道』を観てきました。以前から観たかった映画です。古今東西の作家さんがしばしば言及し、いわば「これまでの映画批評の蓄積」を帰納することによって、その作品の名を世に知らしめ続けている不朽の名作。今年はフェリーニ監督の生誕100年ということで、各地でリバイバルが行われており、昨夜の上映は2学期を乗り越えた自分へのクリスマス・プレゼントにぴったりのタイミングでした。

 

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 上映開始の直前、館内に制服姿のおそらくは高校生と、おそらくは彼のパパが入ってきて、おぉ、素晴らしき家庭教育、とあたたかい気持ちに。息子さん、わかったかな、フェリーニの『道』のよさ。ちなみに私は期待が大きかったためか、消化不良です。消化不良の度合いでいえば、やれアクティブ・ラーニングだの、やれカリキュラム・マネジメントだの、やれ新学習指導要領だのって、演繹型思考で組み立てられた教育政策と同じです。

 

 

 苅谷剛彦さんの新刊『コロナ後の教育へ オックスフォードからの提唱』を読みました。演繹型と帰納型をひとつの補助線として、日本の教育をクリティカルに思考した一冊です。これからの日本の教育を考え、再構築するための判断材料になる一冊でもあります。判断材料の核となるものを簡単に言うと、予測できない未来だからこそ、教育政策を学校現場に下ろすのはNGということ。大切なのは、現場の実績からの帰納です。

 

 演繹型思考はNG。

 

 以前、苅谷さんの本にはまっていた時期がありました。どの本も魅力的で、大村はまさんとの共著『教えることの復権』や、今回の新刊にもたびたび登場する『大衆教育社会のゆくえ』、それから「ポジティブリスト」という言葉が印象的な『欲ばりすぎるニッポンの教育』(増田ユリヤさんとの共著)など、再読してブログで紹介したい本がたくさんあります。何せ東大の教授からオックスフォード大の教授ですからね。並の「道」ではありません。


 2006年11月26日(日)、東京大学にて。

 

 もう14年前か、新幹線に乗って、苅谷さんがコーディネータを務めるシンポジウムを観に行ったのは。質疑応答の際に、横浜市の教員が「あなたたちは何もわかっていない」って、怒っていた場面をよく覚えています。曰く、保護者から苦情の手紙が来るんです、我々は神経をすり減らしながら返事を書きます、あなたたちが言っているのは机上の空論だ、云々。

 

 ホール内、シーン。

 

 苅谷さんは演繹的な「机上の空論」ではなく、今も昔も実績に基づく帰納的な教育改革を謳っているのに。現場とのギャップは、かくも大きい。冒頭の引用は《他方、帰納型思考は、自分たちが行ってきたこと(実績)への自信に裏付けられている。どんなに社会が変わろうと、チュートリアルという教授・学習法を変える必要はないという判断だ》と続きます。

 

 

 学習指導要領もアクティブ・ラーニングもカリキュラム・マネジメントも、なんで所与(given)のものなんだ、という話です。アクティブ・ラーニング(=主体的・対話的で深い学び)でいうところの「主体性」という言葉だって、その意味するところは時代によって変わっているのに、そういったことを知っていますか(?)と苅谷さんは暗に問います。知りませんでした。

 

「主体性」の歴史的変容。

 

 87年の臨教審以前は、批判的精神を「主体性」の中核に据えていた。それは権威に追従して戦争を起こしてしまった、具体性をもつ「過去」の反省から。一方、現在の「主体性」が参照しているのは、新学習指導要領に書かれている、予測できない「未来」であり、そこに具体性はない。具体性がないものを基準にしているのだから、何でもありの教育改革になってしまっている。苅谷さんはそのことを《教育がはまった「不確実性の罠」》と表現しています。

 

 だが、「予測できない未来」「先行き不透明な」社会の変化に「主体的に」関わるとはどのようなことか。それを可能にする資質・能力とは何か。
 先に見た敗戦直後や60年代の主体性の希求と比べると、主体性とは何かを認定するための輪郭がぼやけている。

 

 輪郭がぼやけていると、やれプログラミングだの、やれ英語だの、やれGIGAスクールだのって、何でもありになります。学校現場に「ポジティブリスト」が増えているのはそのためです。だからこそ、現場発の教授・学習法を検証し、帰納的に採用すべきではないのか、というのが苅谷さんの提唱です。オックスフォード大学でいえば、チュートリアルの「理解のされ方」が参考になります。

 

 ちなみにチュートリアルとは、教師による徹底した押し付け型の教育だ。読む文献もエッセイの課題も教師が決める。そして毎週十数冊の文献を学生に読ませ、教師が与えた課題に答えるための十数ページのエッセイを書かせる。そのうえで、週1回1時間、教師が学生にエッセイに見られる弱点を指摘し、学生がそれをディフェンスする。学生の側からみれば、チュートリアルの時間を除きほとんどの学習は無言で行われる。大量の文献を読むことも大部のエッセイを書くこともなく、自分の意見を自由に述べるだけの授業とは対極的な学習だ。見た目だけでは、パッシブな学習である。それでも、それが批判的思考力を鍛えるうえで有効なことを教師も学生も知っている。つまり帰納的に理解している。

 

 以前に同じことをブログに書いたような気がしますが、全市に公開した授業で「素晴らしい授業だったし、子どもたちも素晴らしかったけれど、あなたがやっている道徳の授業は〇〇市の道徳ではない」と、協議会の場で指導主事に「周知・徹底」されたことがあります。演繹型思考で組み立てられた〇〇市の道徳を「周知・徹底」しなければいけない立場なのでしょう。

 

 子どもたちの実態、見ましたよね?

 

 とは言わなかった(言えなかった)し、なんで〇〇市の道徳はクリティカル・シンキングの対象じゃないんだ、とも言わなかった(言えなかった)けれど、言いたかったことは『コロナ後の教育へ』に書いてあったので、まぁ、いいや。さすが苅谷さんです。教育改革神話を解体するだけのことあります。以下、目次です。

 

 はじめに 教育改革神話を解体する
 第一部 日本型教育の習性
 第二部 入試改革、グローバル化 ・・・・・・ 大学大混乱を超えて
 第三部 人文科学の可能性
 第四部 教育論議クロニクル ―― 2016年~20年
 終 章 コロナ禍中の教育論

 

 演繹型と帰納型の話は第一部に詳しく書いてあります。日本型教育の習性(クセ)というのが「演繹型思考」です。しかも「予測できない未来」なんてファジーなことを言っちゃってるので、苅谷さん曰く「エセ演繹型思考」です。エセ演繹型思考を始めとする悪い習性の数々によって、入試改革が大学大混乱を招いたり、人文科学の可能性が軽んじられたりしています。帰納型ではないから《教員の働き方問題が未解決のまま、より高度な教育実践や学校経営を求め》られたりもしています。「事件は会議室で起きてるんじゃない。現場で起きてるんだ」って、職種は違うし、躍りもしないけれど、そう言いたくもなります。

 

 不透明な時代だからこそ、現場からの帰納を。

 

 コロナ後の教育へ。

 

 

教えることの復権 (ちくま新書)