田舎教師ときどき都会教師

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是枝裕和、ケン・ローチ 著『家族と社会が壊れるとき』より。教育が壊れるとき。児童を見つめるカメラを。

 何が言いたいかというと、映画祭も、放送局も、またいま問題になっている日本学術会議にしても、いわゆる「公共」的な場における表現の自由とか、放送の自由、学問の自由というのは、やはり権力からの自由だと思うのです。
 権力の介入をさせずに、純粋に、忖度なく表現をし、きちんと批評をし、学問をする。その私たちの社会の多様性のために私たちは税金を払い、受信料を払い、それによって彼らの自由を担保しているということです。
(是枝裕和、ケン・ローチ『家族と社会が壊れるとき』NHK出版新書、2020)

 

 こんばんは。朝夕だいぶ寒くなってきたので、今日は実家に帰って車の冬支度をしてきました。毎年この時期に、タイヤ交換を口実に帰省するのが親孝行の一環となっています。父親は元ブリヂストン社員。現役のときはF1のタイヤを手がけるエンジニアだったので、タイヤについて語らせたら父親の右に出る者は(私の周りに)いません。

 

 で、2年前に買ったスタッドレスを積んで、ガソリンスタンドへ。

 

 スタッフさんがそのスタッドレスを見るなりこう言うんです。曰く「溝がもうなくなっていて、交換してもサマータイヤで走っているのと同じになりますが、それでもいいですか?」云々。要約すると、新しいタイヤを買え、となります。父親曰く「問題ない」云々。要約すると、バカなこと言ってるんじゃない、となります。さすがです。

 

 おそるべし自由市場経済&資本主義社会。

 

 もしも父親がいなかったら、新しいタイヤを買っていたかもしれません。ゾッ。善意の可能性もありますが、おそらくはそういうふうに言えと指示されているのでしょう。ある種の怒りは生産的になり得るって、ケン・ローチ監督がそう言っているように、あそこは怒るべきところだったのかもしれません。安全を食い物にするなって。黙ったままでいると、

 

 家族と社会が壊れます。

 

 

 是枝裕和監督とケン・ローチ監督の『家族と社会が壊れるとき』を読みました。2019年に行われた2回の対談(NHK)をベースにして書かれた一冊です。家族と社会が壊れないように、映画を通して警鐘を鳴らし続けている、日英を代表する監督の対談が収められているというのだから、読まないわけにはいきません。

 家族という言葉を共通項にすると、新しいところで言えば、是枝監督の『万引き家族』、ローチ監督の『家族を想うとき』。少し昔にさかのぼれば、韓国のポン・ジュノ監督が《家族映画の傑作を作ってくださり、ありがとうございます》と是枝監督に伝えたという『歩いても  歩いても』を思い出します。

 

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 以下は目次です。

 

 はじめに 心だけでなく頭にも ケンローチ
 第一章 『万引き家族』と『家族を想うとき』から見えてくるもの 是枝裕和
 第二章 〈対談〉家族と社会をめぐって 是枝裕和/ケン・ローチ
 第三章 壊れゆく社会の中で ケン・ローチ
 第四章 「悪い時」を乗り越えるために ケン・ローチ
 第五章 ナショナルへの回収にいかに抵抗するか 是枝裕和
 おわりに 僕はケン・ローチになれない 是枝裕和

 

 是枝監督が最も尊敬し、私淑しているというローチ監督は、社会主義者の典型です。だから、おそるべし自由市場経済&資本主義社会と思っています、きっと。ガソリンスタンドで働く労働者に「(おそらくは)意に反して」ろくでもないことを言わせてしまう社会はNGだと思っています、きっと。

 第一章で、是枝さんは《ローチ監督には、社会主義という明快な思想と、哲学がありますから、そのあたりは僕とはずいぶんと違います。つまり社会主義者という立場から、いまの資本主義社会のシステムや、労働者を搾取する者たちに対する怒りを持っているわけです》と書いています。おわりにのタイトルが「僕はケン・ローチになれない」となっているのも、基本的にはそういった理由からです。年齢的なこともあって、ローチ監督ほどには、是枝監督は右 or 左にこだわりを見せていません。

 では、どこに共通点があるのかといえば、それは生きづらさを抱えている人たちへのまなざしです。右とか左とかの主義主張よりも、「人間をきちんと見つめる」ことが先にある。学校でいえば、新とか旧とかの学習指導要領よりも、「児童をきちんと見つめる」ことが先にあるという話です。

 

 人間をきちんと見つめる。

 

 それに関して、ローチ監督が対談のなかで、僕の映画と共通するものがあるとおっしゃってくださったのが、カメラの置き方でした。これは単にテクニカルな話ではありません。カメラの置き方というのは、世界の捉え方ですから、テクニック以上のものなのです。どこから世界を見るか、どこから人を見るか、ということです。
 大きく分ければ、映画には物語を語ろうとするカメラと、対象である人間を見つめようとするカメラがあります。「見せる」ことと「見つめる」ことの違いと言ってもいいでしょう。このどちらを中心に据えて撮るかによって、作品は明快に分かれます。

 

 見せることと、見つめることの違い。是枝監督とローチ監督は、当然、見つめるを中心に据えて作品を撮ります。監督と一緒に人間を見つめ、そこで何かを感じとった観客が、後に行動を起こすことによって社会が少しずつ変わっていく。つまり見つめることから始めて、見せることにつなげていくというアプローチです。逆ではない。

 

 そこには主義主張を超えたシンパシーを感じます。つまり、政治的な主義主張と、映画自体が持っている、人間を見つめる視線は、必ずしもイコールではない。そのことを再確認できたのも、僕にとっては今回の対談大きな収穫でした。

 

 学校の先生たちも、基本的には両監督と同じように、見つめるを中心に据えて働いている、と思います。児童を、見つめる。教育の話につなげるために、見せることと見つめることをそれぞれ別の言葉で言い換えると、次のようになります。

 

 見せること → 演繹的思考
 見つめること → 帰納的思考

 

 学校現場は児童を見つめて帰納的に授業を行っているのに、その成果に光が当たることも、その成果が検証されることもなく、常に演繹的思考(主体性、創造性、個性、問題解決能力が必要というような主義主張)によって教育改革が行われている。オックスフォード大学教授の苅谷剛彦さんが、新著『コロナ後の教育へ オックスフォードからの提唱』(中公新書ラクレ、2020)にそのようなことを書いています。

 

 帰納型の英国。
 演繹型の日本。

 

 そういった対比による分析です。帰納型の教育のよさを知ってほしい、という話。ローチ監督が英国の人であるということを踏まえると、英国の教育がよい社会を生み出しているとは全く思えませんが、少なくとも日本の学校現場が演繹的思考による「理想」の教育改革によって右往左往しているのは間違いありません。やれアクティブラーニングだの、やれプログラミング教育だの、やれ新学習指導要領だの。すなわち理想の物語を語ろうとする上からの改革(カメラ)です。

 

 教育が壊れるとき。

 

 どこから教育を見るか。社会から(?)、それとも児童から(?)。3日前に「公立小学校、全学年35人学級へ 40年ぶり見直し」というニュースが流れていましたが、児童から、すなわち児童をきちんと見つめていれば、5年間かけて35人学級(!)よくやった(!)なんていう報道の仕方はしないのではないかと思います。もちろん何もしないよりはよいものの、全国にある学級の9割はすでに35人以下だというし、それに40人が35人になったところで、現状のシステムでは児童をきちんと見つめられるわけがありません。

 児童を見つめることを中心に据えようという思いを国がもっているとすれば、今すぐにでも欧米並みの20人前後にしようという話になるんじゃないかなぁ。それに加えてもっともっと学校現場に人を増やそうって話になるんじゃないかなぁ。そうならないのは、やはり国のカメラが児童を見つめていないからじゃないかなぁ。

 

 私たちの社会の多様性のために私たちは税金を払っている。

 

 冒頭の引用は、是枝監督が書いている第五章の「ナショナルへの回収にいかに抵抗するか」から引っ張ってきたものです。引用の直前に書かれている話がおもしろいので、ぜひ本を買って読んでほしいのですが、兎にも角にも、多様性が失われると社会は壊れます。社会は家族や教育よりもでっかいから、社会が壊れれば当然、家族や教育も壊れます。社会のために、家族のために、教育のために、もっとうまく税金を使ってほしい。人間をきちんと見つめれば、子どもをきちんと見つめれば、社会も家族も教育も壊れかけていることがわかるから。

 

 社会の多様性のために、もっとお金を。

 

 教育に、もっとお金を。