しかしこの社会の働き方を、全身ではなく、「半身」に変えることができたら、どうだろうか。半身で「仕事の文脈」を持ち、もう半身は、「別の文脈」を取り入れる余裕ができるはずだ。そう、私が提案している「半身で働く社会」とは、働いていても本が読める社会なのである。
(三宅香帆 著『なぜ働いていると本が読めなくなるのか』集英社新書、2024)
おはようございます。2週間くらい前でしょうか。教育学者の西川純さんが Facebook に「教員は副業としては最高。これが分かる社会が来るだろう」と書き込んでいました。「半身で働く社会」を提案している三宅香帆さんも首肯するであろう予言です。私も首がもげるくらい頷きました。
右足は教室に、左足は教室の外に。
教室の外で出逢った「人・モノ・コト」を授業につなげることができれば、換言すれば「別の文脈」を授業につなげることができれば、楽しい。担任が「楽しい」と感じていれば、子どもたちも「楽しい」。WinWin です。つまり、
最高。
西川さんも、三宅さんも、それから教員が二足の草鞋を履くことを奨励しているというフィンランド政府も、そのことがよく分かっています。長時間労働を是とする「全身で働く社会」よりも、定時退勤を是とする「半身で働く社会」の方が、嬉しい。働いていると本が読めなくなるライフ・スタイルよりも、働いていても本が読めるライフ・スタイルの方が、嬉しい。いつかきっと、そのことが分かる社会が来るだろう。西川さんと三宅さんが予言し、私が固めた。5年後、10年後に、そんなふうに言い切れたら、
嬉しい。
三宅香帆さんの『なぜ働いていると本が読めなくなるのか』を読みました。タイトルの「問い」に答えるべく、明治以降の読書史と労働史を紐解いていく一冊です。はっきり言って、当たりです。大当たりです。疲れてスマホばかり見てしまうあなただけでなく、全読書人、否、全日本人に勧めたい。以下、目次です。
まえがき 本が読めなかったから、会社をやめました
序 章 労働と読書は両立しない?
第一章 労働を煽る自己啓発書の誕生 ― 明治時代
第二章 「教養」が隔てたサラリーマン階級と労働者階級 ― 大正時代
第三章 戦前サラリーマンはなぜ「円本」を買ったのか? ― 昭和戦前・戦中
第四章 「ビジネスマン」に読まれたベストセラー ― 1950~60年代
第五章 司馬遼太郎の文庫本を読むサラリーマン ― 1970年代
第六章 女たちのカルチャーセンターとミリオンセラー ― 1980年代
第七章 行動と経済の時代への転換点 ― 1990年代
第八章 仕事がアイデンティティになる社会 ― 2000年代
第九章 読書は人生の「ノイズ」なのか? ― 2010年代
最終章 「全身全霊」をやめませんか
あとがき 働きながら本を読むコツをお伝えします
読書の歴史と労働の歴史を重ね合わせることで「問い」に迫っていく。目次からも分かるように、そこにこの本の魅力があります。まるで猪瀬直樹さんの『黒船の世紀』のよう。猪瀬さんは《日本とアメリカが戦争する。そういう可能性について、いつ誰が考えたか。考え始めたか》という「問い」の答えのひとつとして、日米未来戦記の流行にたどり着きます。
三宅香帆さんの『なぜ働いていると本が読めなくなるのか』を読んでいます。明治以降、日本人がどのように本と関わってきたのかがわかり、勉強になります。《大正時代、日本の読書人口は爆発的に増大した》という下りでは、猪瀬直樹さんの『黒船の世紀』に出てくる日米未来戦記の流行を思い出しました。
— CountryTeacher (@HereticsStar) May 29, 2024
水野広徳の『次の一戦』(1914)や、ホーマー・リーの『無知の勇気』(1909)などが日米未来戦記のひながたとなって、日本とアメリカが戦う小説が流行り、猪瀬さんいうところの《そういう可能性》を広めていったんですよね。読書が歴史を動かしたというわけです。ことほどさように「読む」は歴史とつながっている。
もちろん、労働の歴史とも。
「仰げば尊し」の歌がつくられたのは、まさに「身をたて名をあげ、やよはげめよ」――「立身出世主義の時代」がはじまったころのことだった。
そして出版業界においても、はじめて立身出世を煽るベストセラーが誕生した。
おそらくは多くの人が福沢諭吉の『学問のすゝめ』をイメージするのではないでしょうか。三宅さんはそのイメージを踏まえた上で《しかし1871年(明治4年)に刊行された『西国立志編』は、『学問のすゝめ』よりもさらに売れた》と書きます。イギリス人のスマイルズが書いた『西国立志編』のことです。
「自己啓発書の流行」というと現代において最近はじまったもののように感じられる。しかしその源流は明治時代にすでに輸入され、「成功」「修養」といった概念とともに日本の働く青年たちに広まっていたのである。
『西国立志編』からはじまり、「成功」などの雑誌に至るまで、欧米の自己啓発思想の輸入は、日本のベストセラーをつくり続けていた。
いわゆる「仕事術」や「自己啓発」みたいな本は、昔からあって、それが水野敬也さんの『夢をかなえるゾウ』のように、今でも続いているというわけです。長時間労働の源流と言えるかもしれません。労働を煽るような本よりも、資本主義を加速させるような本よりも、先生を先生として立てる「仰げば尊し」の大切さを説くような本が書かれ、読まれてほしかった。ちなみに卒業式のときに「仰げば尊し」を歌ったのは、どれくらいの世代まででしょうか。私は歌った記憶がありません。見上げてみるぐらい尊いものだった「先生」は、今では見下げてみるぐらい価値の低いものとなり、勤務校は4月から欠員1。残念です。猪瀬さんも、何かに《「仰げば尊し我が師の恩…」という卒業の唄がもう歌われなくなっているのは残念なことですね》と書いていました。
残念な社会。
半身で働けば、自分の文脈のうち、片方は仕事、片方はほかのものに使える。半身の文脈は仕事であっても、半身の文脈はほかのもの ―― 育児や、介護や、副業や、趣味に使うことができるのだ。
読書とは、「文脈」のために紡ぐものだ。
働いていると本が読めなくなるような、そして教員不足になるような、残念な社会を変えるべく、明治から平成に至るまでの読書の歴史と労働の歴史をセットで紐解いた上で、三宅さんは「本が読める」働き方を提案します。そういった社会のあり方を提案します。それが冒頭の引用にある「半身で働く社会」です。歴史から未来へという、この流れも秀逸に過ぎます。
自分から遠く離れた文脈に触れること ―― それが読書なのである。
200%同意です。だから本を読み、このブログを書いています。このブログから始まった出逢いによって、つまり読書から始まった出逢いによって、授業がどんどん変化していっています。教室の外はおもしろい。
そのおもしろさを、教室に。
別の文脈を、学校に。