田舎教師ときどき都会教師

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宮崎智之 著『平熱のまま、この世界に熱狂したい』より。サウイフモノニ、ワタシもナリタイ。

 つまり「何者か」というのは本来、be の話だったのにもかかわらず、どこまでも目的達成的で、存在そのものを顧みない「実感」に乏しいものになっているがゆえに、焦燥感、空虚感にさいなまれる do 的な時間感覚に追われる状態になってしまっているのではないか、ということだ。そのねじれが、僕をより焦らせ、より困惑させる。
 いわゆる「あがり」という状態がない今の時代は、常に成長し変化する do が求められる。無目的に集まったり、なにかをやったりする場や時間を設けることが難しく、be がままならない時代だとも言える。だからこそ、そこにいるだけで無条件に「何者か」になれる場や時間を確保することが大切なのではないか。
(宮崎智之『平熱のまま、この世界に熱狂したい』ちくま文庫、2024)

 

 おはようございます。宮崎智之さんのエッセイを読みながら最初に思い出したのが、田辺聖子さんの『篭にりんご  テーブルにお茶…』に出てくる《私はといえば、ふもとや三合目をみずから望んで、人生をたのしんでいる人が好きである》という一文と、《てっぺんだけをめざしているうちに、人生のいちばん美味しい部分が、腐ってたべられなくなっちゃったり、するのだ》という一文です(孫引き)。めちゃくちゃ共感したので、以前、このブログでも紹介しました。「てっぺん」ではなく「ふもと」で be を楽しめるような、サウイフモノニ、

 

 ワタシもナリタイ。

 

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 次に思い出したのが、勅使川原真衣さんの『働くということ 「能力主義」を超えて』です。

 

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 宮崎さんも勅使川原さんも「弱さ」を肯定していて、過度に「強さ」を肯定する目的達成的な社会のあり方に、あるいは「能力主義」的な社会のあり方にモヤモヤしているという共通点をもちます。それからもうひとつ。宮崎さんはアルコール依存症をきっかけに、勅使川原さんは38歳でガンに罹患したことをきっかけに、宮崎さんの言葉でいうところ《弱くある贅沢》によりセンシティブになったという共通点をもちます。

 

むしろ、「強さ」を誇示することによって、生きづらさを抱えてしまうのが現代なのであり、男性が「強さ」に固執しなければ生きられない時代は、めでたくもう終わった。ようやく性別に関係なく、誰もがお互いの弱さを支えながら生きていける時代が始まるのだ、と。

 

 男性が「強さ」、すなわち「能力主義」に固執しなければ生きられない時代は、もう終わらせなくてはいけない。女性がそれに追随しなければいけないような時代も、もう終わらせなくてはいけない。っていうか、終わりかけている。超えかけている。うん、宮崎さんも勅使川原さんも、

 

 同じベクトルの未来を見ている!

 

 

 宮崎智之さんの『平熱のまま、この世界に熱狂したい』を読みました。ラッキーでした。宮崎さんのことを全く知らなかったのに、地元の小さな書店で、たまたまこのエッセイ集に「出会えた」からです。やはり、リアル書店って大事です。面陳も大事です。そして、思わず手に取ってしまうクセのあるタイトルも大事です。解説を担当している山本貴光さんもタイトルに惹かれたようで、《それというのもこの書名。だって「平熱のまま、この世界に熱狂したい」ですよ》と書いています。

 

 目次は以下。

 

 1章   ぼくは強くなれなかった
 2章   わからないことだらけの世界で生きている
 3章   弱き者たちのパレード
 4章   弱くある贅沢
 補章   川下への眼
   

 目次にもクセがあります。やさしいというか、共感というか、安心というか、そういった類いのクセです。

 

 きっと、いい人なのだろうなぁ。

 

 そう思いつつ、読了ポストをしたところ、なんと、ご本人にフォロー&リポスト&引用ポストをしていただきました。熱狂です。秒で『モヤモヤの日々』を注文してしまうくらいに熱狂です。

 

 いい人だ。

 

 

 

 do と be。

 

 どのエッセイも心に残りましたが、本好きの教員としてあえてひとつ挙げるとすれば、やはりこの「do と be」の話(1章に出てきます)がいちばん刺さりました。担任が忙しすぎるのも、不登校が増え続けているのも、おそらくは do(目的達成的)と be(無目的)のバランスが崩れているという問題に、大人が気づいていないことが原因だと思うからです。学校現場では do が圧倒的な「正義」です。逆に be は「正義」の反対で、「サボっている」とか「怠けている」なんてみなされがち。私はただ、平熱のまま、この世界に熱狂したいだけなのに。

 

 モヤモヤします。

 

 モヤモヤの反対もありました。それはずばり、引用です。1章に限らず、文学からの引用が記念碑的に巧いんですよね。ピタッとはまっていて、引用好きにはたまりません。

 

 物語のラスト、文学修養と称してほとんど気まぐれな戯れとしか思えない色恋沙汰に入れあげ、自身の進学費用をまかなったがために貧困に窮する実家への仕送りを滞らせた挙句、「父危篤」の報を無下にして臨終に立ち会えなかった主人公はこう語る。

 

 物語というのは、二葉亭四迷の『平凡』のことです。田山花袋の『田舎教師』にも通ずる話ではないかと思いました。どちらも「何者か」を目指すことがテーマのひとつになっている小説だからです。父が亡くなったときに《痛切な実感》を覚えたという、文学かぶれの主人公の語りを引き、宮崎さんは次のように書きます。

 

「何者か」を目指すことに、どこか虚しさと焦燥感を覚えるのは、この「実感」を疎かにしているという罪悪感があるからなのではないかと、ふと思う。

 

 巧すぎます。「何者か」を目指すのは do の世界です。「実感」を大切にするというのは be の世界です。do と be の話は、二葉亭四迷や田山花袋が後世に残した重要な課題というわけです。近内悠太さんの言葉を借りれば、贈与とも言えるでしょう。贈与は、受取人の想像力から始まる。もちろん、受取人のひとりは《いつかそのことも文章にします》という宮崎さんです。平熱のまま、

 

 その「いつか」に熱狂したい。

 

 楽しみです。