唐突に、歌舞伎の語源が「かぶく(傾く)」だというのを思い出す。
何百年もの伝統と確固たる「型」というものがある。それは文字通り、その世界に「疑いの余地なく正しいもの」として屹立している。
そのまっすぐでゆるぎないものを「傾ける」のだ。
それは、いわゆる「正統派」とそうでないもののすべてに共通する作為のような気がする。バレエだってそうだ。重力に逆らい、まっすぐに立っているものを、コンテンポラリーはオフバランスにする。傾ける。もっといえば、崩す。潰す。平たくする。
(恩田陸『spring』筑摩書房、2024)
こんばんは。縁あって、コンテンポラリーの分野でけっこうな知名度を誇るダンサーさんが授業に来てくれることになりました。ゲストダンサーとして、スウェーデン王立バレエ団でも踊っていたことがあるというスペシャルな人です。
で、渡りに船。
打合せの前に、バレエとコンテンポラリーについて勉強しておこう。そう思っていた矢先、行きつけの本屋で目に留まったのが恩田陸さんの新刊です。帯には《構想・執筆10年。辿り着いた最高到達点=長編バレエ小説》とあります。
恩田陸さんの新刊『spring』を読み始める。長時間労働に負けず、読む。先日の中教審まとめを見る限り、長時間労働は今後も続いていく。勤務校はどんどん忙しさを増している。教員自らが忙しくしている。春は遠い。 pic.twitter.com/X5MBOGFjSY
— CountryTeacher (@HereticsStar) May 20, 2024
教員の長時間労働をオフバランスにするためには、コンテンポラリーな働き方が求められます。ずばり、定時退勤です。ちなみにゲストに来てくれるそのスペシャルなダンサーさんによると、スウェーデンのダンサーさんは時間になると当たり前のように帰っていったし、自宅で練習してくるようなこともほとんどなかったとのこと。そのことを褒めていたわけではありませんが、日本人の働き方が、教員の働き方が、昭和のままであることは確かです。コンテンポラリーな働き方をして、学校現場に「疑いの余地なく正しいもの」として屹立している残業麻痺を、崩す、潰す、平たくする。そして、
春を待つ。
恩田陸さんの新刊『spring』を読みました。あの『蜜蜂と遠雷』から進化を遂げる、新たな代表作誕生(!)なんて言われた日には、読まないわけにはいけません。史上初めて直木賞と本屋大賞を同時受賞した『蜜蜂と遠雷』は、紛うことなき傑作でした。どれくらい「紛うことなき」なのかといえば、パパが勧めた本なんてこれまでは一切読もうとしなかった長女が、あっという間に上巻も下巻も読み終えて、スピンオフ小説の『祝祭と予感』まで読んでしまったくらいに「紛うことなき」です。で、先に結論ですが、新刊の『spring』は、私が思うに、紛うことなき傑作だった『蜜蜂と遠雷』のレベルには、わずかに、
到着セズ。
とはいえ、勉強になりました。そして、バレエやコンテンポラリーを観に行きたくなりました。そんなふうに動機付けられる一冊です。沢木耕太郎さんの『深夜特急』を読むと旅に出たくなる。それと同じです。
主人公は、春。
むろん、「良心」もあればそうでない「邪心」もあるわけで、それもまたバレエの真実であり、魅力でもある。この素晴らしくも残酷な世界は、明るく綺麗な色だけでは到底描き尽くせない。バレエの美と栄誉は、無数の人々の限りない憧憬から生み出された嫉妬と怨嗟と挫折が沈む、量り切れない汗と涙でできた深い海に浮かぶ氷山だ。それすら大部分は水面下に隠れていて、キラキラした陽射しを浴びることができるのは、ほんの数パーセントのわずかな頂点に過ぎない。
勉強になります。厳しい世界なんだなぁ。語っているのは主人公の「よろずはる」。漢字で書くと「萬春」。まぁ、天才です。『蜜蜂と遠雷』が、太さの違いはあれど、公風間塵と栄伝亜夜、マサル・カルロス・レヴィ・アナトールと高島明石を物語の柱にしていたのに対し、『spring』はタイトルの通り、主人公の春が物語の大黒柱として描かれています。つまりは春の、成長譚。
目次は以下。
Ⅰ 跳ねる
Ⅱ 芽吹く
Ⅲ 湧き出す
Ⅳ 春になる
Ⅰの「跳ねる」では、マルティン・ブーバー言うところの『我と汝』の関係にある、同じダンサーの純から見た「ハル」を、Ⅱの「芽吹く」では、春の伯父である稔から見た「彼」を、Ⅲの「湧き出す」では、かつて同じバレエ教室に通っていた七瀬から見た「春ちゃん」を、そしてⅣの「春になる」では、春が見た「この世のカタチ」が描かれます。
この世のカタチとは?
ネタバレになるのでこれ以上は書きませんが、以下、バレエのこともコンテンポラリーのこともほとんど知らなかった私が「勉強になるなぁ」と思ったところを3つ紹介します。
まずはⅠの「跳ねる」より。
今や、プロのバレエダンサーになるにはコンテンポラリーを踊れることが必須条件になっている。コンクールでの比重も年々高くなるばかりだ。
辞書を引けば現代的、同時代的などという言葉が出てくるコンテンポラリー。そのダンスはクラシックバレエと分けて語られるが、実際のところ、定義は難しいし、正直言って俺は今でもよく分からない。
授業に来てくれるダンサーさんは「敢えて言えばコンテンポラリー」と話していました。僕の職業は寺山修司です、みたいな話と同じで、そのダンサーさんも定義に当てはまらない踊りをしているんですよね。その踊りを子どもたちはどのように見て、どのように感じるのか。楽しみだなぁ。
次にⅡの「芽吹く」より。
歌舞伎にしろ、バレエにしろ、つくづく型のあるものは強いな、と思う。
身体に染みこみ、叩き込んだ型があってこそ、自由に踊れるようになるのだ。
俳句に短歌、漢詩にソネット。どれも厳格な縛りや約束ごとがある。それらの制約の中でこそ、イメージは無限に翔べる。
授業ではダンサーさんの自伝的トークも予定しています。子どもたちからの質問タイムも予定しています。この「型」の話は、学校でいうところの「基礎・基本」に相当するでしょうか。イメージを無限に翔ばした先にコンテンポラリーがあるのだとすれば、言い換えると「自由」があるのだとすれば、ダンサーさんの姿を通して、子どもたちに「基礎・基本」の大切さが伝わるかもしれない。楽しみだなぁ。
そして最後にⅢの「湧き出す」より。
バレエを作ったのはルイ14世かもしれないけれど、いつもバレエの間口を広げて進化させてきたのはエトランゼ(異邦人)たちだった。彼らは常に大国の周縁部から出てきて、異質なものをバレエに持ち込み、新たな息吹をバレエに吹き込んだ。
春もエトランゼ、授業に来てくれるダンサーさんもエトランゼです。おもしろい大人を教室に連れてくれば、定期的に連れてくれば、授業の間口が広がっていくかもしれない。進化していくかもしれない。異質な他者を教室に持ち込むことによって、子どもたちにどんな息吹が吹き込まれるのか。楽しみだなぁ。
春は必ずやって来る。
おやすみなさい。