ゴシック小説といえば、ウォルポールの『オトラント城奇譚』(1764)、ラドクリフの『ユドルフォの謎』(1794)や『イタリアの惨劇』(1797)、メアリ・シェリーの『フランケンシュタイン』(1818)、ロバート・マチューリンの『放浪者メルモス』(1820)などが挙げられるが、これらのゴシック小説には幽霊が出没する古城、迷路のような回廊といった舞台装置、あるいは超自然現象といった仕掛けがつきものである。
(小川公代『ゴシックと身体』松柏社、2024)
こんばんは。ケアのつもりが執着になってしまうとか、教育はケアであるとか、ケアはめんどうくさいものだから統治や「叱る」に走りやすいとか、ケアの倫理は文脈に依存した個別・具体的なものであるとか、嘘やフィクションがケアになることもあるとか、見えないものを見ようとするのがケアであるとか、それからケアする人がケアされるようになってほしいとか。先週、そんな話を聞いてきました。ケアを拡げ、広めるための、ケアにまつわるエトセトラ。スピーカーは近内悠太さんと小川公代さんです。
近内さんが「書く力」だけでなく「話す・聞く力」にも長けていることは、過去に何度も聴講していたので知っていましたが、小川さんも負けず劣らず、びっくりするくらいおもしろいんです。
対談の序盤、村上春樹さんの『ダンス・ダンス・ダンス』が話題になったときに、小川さん曰く「『ダンス・ダンス・ダンス』も、ちょっと間違えば『ノルウェイの森』的なものが入り込む余地のある、まぁ要するに、僕ってモテちゃうよね、どんだけ逃げてもみんな追っかけてきちゃうんだよね、パスタ好きだし。チーズなんか大好きだよ、僕、とかね。自分はチーズが好きで、中学校に上がったときに犬が死んだっていう話が出てくるんですけど、それ何の関係があるんですか、みたいな」。めちゃくちゃうけました。文章で書くと伝わらないかもしれないので、いつか実際に聞いてほしい。で、村上春樹さんの話題に入りかけたときに、小川さんがこう確認したんです。
通じてますか、みなさん。
イエス。話題に上る小説が、遠藤周作の『沈黙』(1966)、村上春樹さんの『ダンス・ダンス・ダンス』(1988)や『騎士団長殺し』(2017)、宮地尚子さんの『傷を愛せるか』(2022)、ジョージ・オーウェルの『1984年』(1949)などの馴染み深い作品ばかりだったからです。『ダンス・ダンス・ダンス』といえば五反田君、五反田君といえばマセラティ。『1984年』といえばビッグ・ブラザー、ビッグ・ブラザーといえばニュースピーク。そんなふうに連想できるくらいには「読んで」いました。そこが、冒頭に引用したゴシック小説とは違うところです。ゴシック小説の嚆矢とされる『オトラント城奇譚』も、Wikipediaに《人造生命という、純粋に空想の所産による恐怖を生み出した点でも画期的である》と評されている『フランケンシュタイン』も「読んで」いません。だから『ゴシックと身体』を読んでいる途中に「通じてますか、みなさん」と問われれば、
ノー。
小川公代さんの『ゴシックと身体』を読みました。一度途中まで読んで、断念。近内さんと小川さんの対談を聞いてからもう一度チャレンジして、読了。フラフラになりながら、なんとか「あとがき」まで辿り着いた感じです。あとがきの冒頭にはこうあります。
わたしのゴシック研究は、修士論文のテーマとしてメアリ・シェリーの『フランケンシュタイン』を選んだことで始まった。もともとゴシック文学は高校生の頃から耽読していたが、本格的に研究対象にしようと考えたのは、大学の最終年であった。~中略~。今となっては、もちろんゴシック研究は家父長的な社会で女性が生き延びるために不可欠な知恵を授けてくれるものと思っているが、大学生のときには虚構の物語と現実の世界がリンクすることに想像をめぐらすことはあまりなかった。
そもそも、読み始める前まで、ゴシック小説というジャンルを知らず、ゴシック研究は家父長的な社会で女性が生き延びるために不可欠な知恵を授けてくれるものだなんてことも「もちろん」知らず、高校生の頃からゴシック文学を耽読していたという小川さんの知的レベルの高さに想像をめぐらしては、ただただ「すごいなぁ」と感心するばかり。
ゴシック小説とは?
小川さん曰く「女性が読むジャンルなんです、ゴシックって。だいたい悪漢が出てきます。悪い奴です。だいたい美しい女の人を誘拐します。そしてだいたいその美しい人を閉じ込めます」云々。これが読了する上での補助線その1(作品について)です。
ゴシック小説が流行ったのは18世紀から19世紀にかけて。なぜ流行ったのかといえば、それが抑圧された女性たちの「戦術」だったからというのが小川さんの見立てです。序論のタイトルは「 ”ゴシック” という戦術」。
ゴシック作家たちの取り組みは、中世的なものへの回帰でもない、反対に、利益を追求するだけでもない、リベラルで、かつケアに満ちた倫理的な問題提起であったと考えることができる。たとえば、”男らしさ”や ”女らしさ” などの男女二元論、あるいは女性が結婚制度に組み込まれることが「普通」と考える因習的な社会であれば、そこから逸脱する性のあり方やふるまいへの社会的制裁は大きい。
これが補助線2(時代背景について)です。だからゴシック作家たちは、想像力を駆使し、わかりやすくいうと『フランケンシュタイン』のような「普通」じゃない「逸脱」した小説を書くことによって《リベラルで、ケアに満ちた倫理的な問題提起》を行い、因習的な社会に揺さぶりをかけたというわけです。作品を通して、地球を「ケアする惑星」に変えていこうとしている小川さんや近内さんの戦術と同じです。
とはいえ、作品以上に、この時代背景の把握が難しい。例えば、ゴシック作家の想像力を肯定的に説明する文脈で《18世紀において感受性や空想は、ときに「破壊的、危険なまでに制御不能」といった否定的な心の作用を意味する概念であったが、そのような荒々しい想像力は他者の苦しみや悪意を感知することも可能にし、善意を生む力すらあると考えられた》(第1章)とあったり、マチューリンの『放浪者メルモス』の一場面を評して《ロマン主義時代に保守派に揶揄され続けた「情熱」を称賛するこの場面は、愛の結晶として肯定的に描かれている》(第6章)とあったりするわけですが、想像力や情熱が否定的なものとしてとらえられている当時の社会のリアリティを、それこそ解像度高く「想像」することができません。何だか私が常識という檻に閉じ込められているような気さえしてきます。
目次は以下。
第1章 ラドクリフ『ユードルフォの謎』―― 生気論と空想のエンパワメント
第2章 ラドクリフ『イタリアの惨劇』―― 人権侵害に抗する
第3章 ゴシックにおけるヒロイン像 ―― ウルストンクラフトのフェミニズム
第4章 ゴドウィンのゴシック小説 ―― 理性主義と感受性のあわい
第5章 シェリー『フランケンシュタイン』―― バラッドに吹き込む精気
第6章 マチューリン『放浪者メルモス』―― 家父長的な結婚を問う
第7章 ブロンテ『嵐が丘』―― 魂の生理学、感情の神学
第8章 ヴァンパイア文学から #MeToo まで ――〈バックラッシュ〉に抵抗する
いつになるかはわかりませんが、目次に登場するいくつかのゴシック小説を読んでから、もう一度『ゴシックと身体』に挑戦してみたいと思います。対談の中で、小川さんが「言葉の依存先を増やすこと」と話していました。ゴシック小説にはそういった言葉がたくさんあるのでしょう。
ちなみに、言葉の依存先と聞いて私が真っ先に思い出したのは、『ダンス・ダンス・ダンス』に出てくる《他人が僕をどのように見なそうと、それは僕には関係のない問題だった。それは僕の問題というよりはむしろ彼らの問題なのだ》です。この言葉を依存先のひとつにすることについて、小川さんにその是非を訊いてみたい。対談の中盤、小川さんは『ダンス・ダンス・ダンス』に出てくる「僕」を、虐げられた女性たちの声を聴き、それらをつなげる力のある男性として肯定していました。踊り続けるんだ。別言すると、聴き続けるんだ。
つなぎ続けるんだ。
おやすみなさい。