田舎教師ときどき都会教師

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最首悟 著『能力で人を分けなくなる日』より。弱さはつながりを生む。

 手紙の趣旨はね、まず、私が重度知的障害の星子と同居しているのを知っていて、星子はこの世の中のじゃま者であり、殺すべき対象だっていうこと。
 2つめは、私が大学人でありながら、どうして星子を殺さないのだということ。大学っていう能力主義の場にいながら、どうして星子を殺さないんだ、矛盾していると。
(最首悟『能力で人を分けなくなる日』創元社、2024)

 

 こんばんは。手紙の主は、2016年に神奈川県にある知的障害者施設「津久井やまゆり園」で入所者など45名の殺傷事件を起こした、植松聖被告です。

 

 環世界が思いっきり違うのでしょう。

 

 ユクスキュルが『生物から見た世界』で描いた環世界という考えは、生物と別の生物ではなく、育ってきた環境が違う人間ひとりひとりにも言えるのではないか。だから私たちは孤独であり、それ故にケアを必要としているのはないか。

 先日、贈与論で知られる近内悠太さんの講座に参加した際、そんな話を聞きました。で、上記の植松被告と最首悟さんのやりとりが頭に浮かびました。ちなみにその講座には、作家(?)の二村ヒトシさんも来ていて、びっくり。近内さんと二村さんも、

 

 環世界が思いっきり違うのではないか。

 

 勝手なイメージとしてそう思うのですが、どうでしょうか。環世界の違いを乗り越え、それぞれの世界に橋を架けるためには、物語が必要です。つまり、環世界で人を分けなくなる日に近づくためには、物語の復権が欠かせないということです。近内さんの言葉で補足すれば、

 

 神話の復権が欠かせない。

 

 それはきっと、能力で人を分けなくなる日についても言えることでしょう。

 

 

 最首悟さんの『能力で人を分けなくなる日』を読みました。87歳になった生物学者&社会学者、ときどき思想家の著者が、年齢的に言って明らかに環世界が異なるであろう10代の3人(中学3年生、高校2年生、高校2年生)と語り合った対話集です。サブタイトルは、

 

 いのちと価値のあいだ。

 

 タイトルとサブタイトルのあいだを行ったり来たりする上で、大きな話題となっているのは、重度障害者である著者のお子さんのことと津久井やまゆり園の事件のこと、そして水俣病&石牟礼道子さんのことです。以下、目次より。

 

 第1回 頼り頼られるはひとつのこと
 第2回 私の弱さと能力主義
 第3回 開いた世界と閉じた世界
 第4回 いのちと価値のあいだ

 

 第1回の「頼り頼られるのはひとつのこと」というのは、教室にも敷衍させたい見方・考え方です。わからなかったり困ったりしたら、近くの人を頼って、聞く。誰かに頼られ、聞かれたら、答える。それは当たり前のこと。

 

 ひとつのこと。

 

 マクドナルドでいうところのハッピーセットみたいなもの。しかし、これがなかなか難しい。なぜ難しいのかといえば、それは学校だけでなく、社会全体が能力主義に毒されているからです。能力主義を簡単にいうと、

 

 より速く、より高く、より強く。

 

 この価値観の下では、遅くて低くて弱い存在は、足をひっばる「じゃま者」として扱われがちです。あるいは、もっと努力しろよ(!)という対象として見られがちです。

 

 自己責任だろ、と。

 

 

 大学というのは、より速く、より高く、より強くの権化みたいなところなのに、そこで教員をしているあなたが《どうして星子を殺さないんだ、矛盾している》というのが植松被告の環世界における「いのちの価値」です。共生思想をもつ私たちからすると、

 

 おかしい。

 

 星子というのは最首さんの4番目のお子さん(46歳)のこと。最首さん曰く《星子の状態はもうずっと変わりがありません。しゃべらないし、目は見えず、排泄の処理も自分ではできません。ごはんは毎日2食、食べさせてもらっている》云々。そんな星子さんに、最首さんは「頼られている」のではなく「頼っている」というのだから、優生思想をもつ植松被告には理解不能なのでしょう。第2回の「私の弱さと能力主義」には、次のようにあります。

 

 ただ、星子は、自分で意識してるかどうかは別として、まったく自明のこととしていることがあると思う。それは、信頼。人との関係を信頼するっていう点は、星子はやっぱり持っているんじゃないか、って。あたりまえのこととしての信頼。星子は「人に頼っている」っていうことを引け目とは思ってないんじゃないか。そこは天真爛漫に人を頼ってるというか、人間の本性として、「人を頼る」っていうことを、ちゃんとひらいている。

 

 ネアンデルタール人が絶滅したのは個々が強かったからであり、私たちの祖先であるホモ・サピエンスが絶滅しなかったのは個々が弱かったからであるという話を何かで読んだことがあります。弱かったから、頼ることができた。頼ることができたから、つながることができた。

 

 弱さはつながりを生む。

 

 逆に言うと、強さはつながりを断つ。だから私たち教員は、つながりを断つような強さではなく、つながりを生むような強さを強さとして称賛することを心がけています。具体的には、算数は得意だけれど、苦手な子の存在は全く目に入らないというAくんよりも、算数が得意で、しかも苦手な子に気付いてどんどんフォローしているBさんを褒めましょうということです。もちろん、算数が苦手なことを「引け目」とは思わずに「わかりません」ってSOSを出せる子も、

 

 褒める。

 

りこ ・・・・・・なんて言うんだろう、何かがうまくいかなくて「自分が能力がない」って思う時に、「がんばるのやめたい」とか「生きるのやめたい」とか思ってしまうけど、でも、いるだけで、自分が元気でいるだけで喜んでくれる人がいるって思うと、「いること」が大事なのかなって思う・・・・・・。

 

 第3回の「開いた世界と閉じた世界」より。高校2年生のりこさんの発言です。褒めたくなります。能力云々にかかわらず、

 

 いること自体に価値がある。

 

 その価値を強く訴えたのが『苦海浄土』の石牟礼道子さんです。最首さんは、星子さんが生まれた翌年から水俣に通い始め、年々、いのちの捉え方をふくらませていったとのこと。石牟礼さんが紡いだ水俣の物語が、最首さんの環世界に橋を架けたのでしょう。第4回の「いのちと価値のあいだ」には、次のようにあります。

 

最首 石牟礼さんの文学はやっぱり、貧しさ、そして苦しみが基盤になっている。水俣病の人々の苦しみを、自分の境遇とも重ねながら、一緒に体験したというかね。その苦しみの極限を、受けとって、立ち会った。その上で、そこから出てくるのが、森羅万象がともに生きる世界、その豊かさを描こうとしたんですね。すべてのもののいのちがさざめく、本当にすごい世界を。

 

 石牟礼さんの『苦海浄土』を再読したくなりました。クラスの子どもたち(6年生)にも、卒業前に勧めようと思います。

 

 

 今日は実家に帰っていました。父と母が高齢になっていくにつれて、帰省する頻度が多くなってきたように思います。父と母が弱くなっていく。

 

 でも、つながりは強くなっていく。

 

 おやすみなさい。