田舎教師ときどき都会教師

テーマは「初等教育、読書、旅行、映画」

工藤勇一、鴻上尚史 著『学校ってなんだ! 日本の教育はなぜ息苦しいのか』より。既存の学校が変わる=未来の社会が変わる。

 ①コンビニで万引きした
 ②下校時に雨が降ってきたので、玄関にあった誰かの傘を黙って持ち帰った
 ③学校にお菓子を持ち込んで食べた
 ④放課後、係の仕事をさぼって黙って下校した
 ⑤授業中に隠れてマンガを読んだ
 ⑥四階の教室のベランダの柵にまたがって友だちと遊んだ
 ⑦授業を勝手に抜け出した
 ⑧クラスのある生徒を「お前は障がい児だ」と馬鹿にした
 ⑨授業中に寝た
 ⑩ひとりの友だちを数人で無視し続けた
 ⑪友だちとけんかして殴ってけがをさせた
 ⑫深夜、友だちと公園で大騒ぎして近隣に迷惑をかけた
 ⑬違反の服装で登校した

 さて、このなかで優先すべきは何か。
(工藤勇一、鴻上尚史『学校ってなんだ!』講談社現代新書、2021)

 

 おはようございます。今日はこれから土曜授業です。近隣の自治体の中には「午前授業+隔日分散登校」を続けている小学校もあるというのに、この攻めの姿勢はいったい何なのでしょうか。優先すべきことを間違えているような気がしてなりません。

 

 コロナ禍で優先すべきは何か。

 

 コロナ禍とは別の話ですが、先日、早朝の通勤電車の中で、冒頭の「このなかで優先すべきは何か」という一文字違いのくだりを読み、早速、その日のうちに冒頭の①~⑬を6年生の子どもたちに提示して「対話」の時間をもちました。もしもみなさんが中学校の先生だったとしたら、どれを優先して指導しますか?

 

鴻上 これは興味深いリストですね。このリストにどう順番をつけるかで、その人の「教育とは何か?」が明確になってくるわけですね。本当に大事なものを何だと思っているのか?

 

 教育とは何か?

 

 子どもたちが全く興味を示さなかったのは③⑤⑦⑨⑬です。⑬の「違反の服装で登校した」なんて、ニュースでよく話題になる「ブラック校則」の典型だと思うのですが、6年生の子どもたちにとっては「教育ではない」ということです。

 

 教育ではない=どうでもいい。

 

 ただでさえ忙しいのだから、教員はどうでもいいことに指導や支援のエネルギーを注いでいる場合ではありません。子どもたちだって迷惑です。優先順位を考えて、学校の当たり前を片っ端からやめていったら、土曜授業もなくなるかもしれません。

 逆に、子どもたちが対話の俎上にのせたのは「①⑫」「②④」「⑥」「⑧⑩⑪」です。かぎ括弧は対話の中でグルーピングされていったもの。最終的には生死に関わるという理由で「⑥」と「⑧⑩⑪」が選ばれました。命あっての教育ということです。

 ちなみに「①⑫」に関しては「学校外のことだから家庭や地域が責任をもてばいい。なんでもかんでも先生たちに任せるのはおかしい」という意見が出て、思わず拍手しそうになりました。そうです、学校が忙しいのは、家庭と地域がそれぞれの当たり前をやめたからです。そしてそれは、鶏が先か卵が先かはわかりませんが、学校ががんばりすぎたからです。がんばりすぎた挙げ句、子どもたちの自由時間や家庭の教育力を奪う土曜授業なんてやっている場合ではありません。あっ、土曜授業に対するイヤイヤがにじみ出てしまいました。いずれにせよ、この13の優先順位リストの作成した工藤勇一さんの言葉を借りれば《命にかかわる問題と比べれば、服装のことなどどうでもよくなりませんか》。

 

 

 工藤勇一さんと鴻上尚史さんの『学校ってなんだ!  日本の教育はなぜ息苦しいのか』を読みました。著書『学校の「当たり前」をやめた。生徒も教師も変わる!公立名門中学校長の改革』で知られるもと麹町中学校長の工藤さんと、著書『「空気」を読んでも従わない   生き苦しさからラクになる』で知られる劇作家の鴻上さんが、日本の教育はなぜ息苦しいのかというテーマで対談した一冊です。それぞれの著書のタイトルから答えがわかります。なぜならば、

 

 学校の「当たり前」をやめないから。

 

 学校の「当たり前」という「空気」を読んで従っているから。

 

www.countryteacher.tokyo

 

 目次は以下。

 

 はじめに 鴻上尚史
 第一章 学校が抱える問題
 第二章 自律をさせない日本の学校 
 第三章 同質性への違和感
 第四章 対話する技術
 おわりに 工藤勇一

 

 これは「はじめに」に書かれていることですが、鴻上さんは中高生時代にブラック校則と闘ってきた過去をもっているんですよね。だから学校の「当たり前」をやめた工藤さんに興味をもった。興味をもったから工藤さんに連絡してトントン拍子で対談が決まった。その経緯は「おわりに」に書かれていますが、おもしろいのは工藤さんが校則問題は学校が抱える本質的な問題ではないと考えているところです。6年生の結論と同じです。冒頭の引用は第一章からとったものですが、6年生の子どもたちが「③⑤⑦⑨⑬」は「教育ではない」と答えているのは、それらが本質的ではないと直観したからです。教育ではない=どうでもいいことに対立軸を置いて、生徒と教員が闘うのは、むなしい。それが工藤さんの経験知です。優先順位を間違えてはいけない。では、優先順位のトップにくる「教育の最上位の目的」はといえば、工藤さん曰く、

 

 自律です。

 

 子育ての目的は「子どもを守り育てる」ことではなく、「健康的に自立させる」ことと言っている鴻上さんと似ています。だからこそ、例えば工藤さんの《私はまず、「わかる授業」こそが良い授業なんだという価値観をつぶしました》という発言と、鴻上さんの《立て板に水で指示を出すのがいい演出家みたいに思われることが多いですけど、やっぱり俳優に任せるべきところは任せることのできる演出家こそが、「いい演出家」なんだと思います》という発言も、職種は違えど似ていることに気付けます。どちらも自律から演繹される考えです。子どもたちの自律を願うのであれば、自律性を奪う宿題なんて要らない。定期テストも要らない。スーパー教員も要らない。五分前行動も要らない。ただの時間外労働に過ぎない「朝の挨拶運動」も要らない。

 

 土曜授業だって、要らないかもしれない。

 

 この「要らないかもしれない」を、同質性に負けずに対話の技術を磨いてひとつひとつ改善していったのが工藤さんです。現状、あらゆる社会指標(例えば「自分を大人だと思う」という質問に対して「はい」と答えた17歳~19歳の日本人の割合は約29%、中国約90%、アメリカ約78%、ドイツ約83%、日本財団調査/2019年)からもわかるように、日本の学校は「自律をさせない学校」になっている。だからこそ、

 

 教育に「対話」を。

 

 その理路はぜひ第3章と第4章、及び以下のブログを読んで確認してみてください。

 

www.countryteacher.tokyo

 

 この本の白眉というか、わたしが最も元気づけられたのは、最後に書かれている工藤さんの以下のコメントです。自分で新しい学校をつくれるとしたらどんな学校をつくりたいですか(?)としばしば質問されるという工藤さん。一度もそんなことを考えなかったという理由を次のように説明しています。

 

 そんな気持ちを持つことがなかった理由を一言で言えば、教壇に立った頃から僕の興味が「学校」というよりは「社会」そのものにあったからだと思います。そして、既存の学校が変わることこそが、未来の社会が変わることであり、そのためには、まずは自分がいる学校が変わらなければならないと信じて、これまでやってきたつもりです。

 

 土曜授業もがんばれそうです。

 

 行ってきます。