田舎教師ときどき都会教師

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大内裕和 著『なぜ日本の教育は迷走するのか』より。給特法成立初期の頃は4時退勤が普通だった。

岡崎さんのご経験としては、給特法成立初期のころの働き方はどのような感じでしたか。
岡崎 確かに「四時退勤」を普通にしていましたよ。
大内 それは驚きですね。それは岡崎さんだけでしょうか。皆さんそうでしたか。
岡崎 当時も遅くまで仕事をしている人もいましたが、原則的には会議は四時までには終わるようにしたし、帰る人がほとんどでした。校長と一緒に帰ったこともよくあります。でも、2000年以降は私だけだった可能性もありますね(笑)。私は2013年に退職しましたが、最後まで四時で帰っていました。これは法律的にはまったく問題ないことになっています。
(大内裕和『なぜ日本の教育は迷走するのか』青土社、2022)

 

 こんにちは。公立の義務教育諸学校等の教育職員の給与等に関する特別措置法、略して「給特法」(=定額働かせ放題)が制定されたのは1971年です。元小学校教員の岡崎勝さんが言うには、その頃は「四時退勤」がほとんどだったとのこと。いったい、どれだけまとな世界だったのでしょうか。そのまともな世界が、いわば真っ白な世界が、半世紀かけて真っ黒になったのだから、

 

 悪法もまた法なり、ではすまされません。

 

 しかも「超勤4項目」には当てはまらない時間外業務をナチュラルに振られるのだから、はっきりいって違法というか、法律を守ろうとすらしていないのだから、ただの悪です。遵法精神にのっとり、業務の全てが勤務時間内に収まるように仕事の割り振りをしないといけないって、それが「私」の仕事だって、腹落ちレベルでわかっている学校長は日本に存在するのでしょうか。教員の労働環境=児童生徒の学習環境です。心の病が原因で休職した教員数が過去最多になっているのも、小中学校の不登校児童生徒数が過去最多になっているのも、そういった校長の存在が稀だからでしょう。

 

 

 大内裕和さんの『なぜ日本の教育は迷走するのか』を読みました。迷走を止め、まともな方向に舵を切るべく、管理職や職場の同僚にも読んでほしい対談集です。

 

 特に、第1章。

 

 第1章の「麻痺する教育現場から問い直す」には、もと小学校教員の岡崎勝さんが大内さんの対談相手として登場します。この本を書店で手に取ったきっかけは、岡崎さんの名前と目が合ったから。岡崎さんは、社会学者の宮台真司さんの友達(?)です。以下のブログでも紹介しました。ほんと、ただ者ではありません。

 

www.countryteacher.tokyo

 

 目次は以下。

 第1章 麻痺する教育現場から問い直す 内田良 ✕ 岡崎勝 ✕ 大内裕和
 第2章 迷走の教育から闘争の教育へ 紅野謙介 ✕ 大内裕和
 第3章 入試改革から見えてくる高大接続問題 中村高康 ✕ 大内裕和
 第4章 異文化への窓を開く 鳥飼玖美子 ✕ 大内裕和

 

 第2章以降も読み応えのある内容が並んでいますが、岡崎さんの登場する第1章について、簡単に紹介します。

 

 職場に一人か二人しか立ち上がる人はいないので、結局数を頼みにしても難しいということになる。そこで、法律を勉強し地公法の46条「措置要求制度」を使って行政闘争にする。そして措置要求は判定で「棄却」「却下」なのですが、現場は少しずつですが確実に変わっていきました。
 私も、「男にも育児時間制度を」「時間外交通指導拒否」「業務外会計拒否」などたくさん措置要求しました。裁判もいくつかしました。少数でも合法性・遵法性を根拠にして、学校運営を批判できる。その法律・法廷闘争を試みたわけです。

 

 岡崎さんの言葉です。教員の労働環境(=子どもの学習環境)をリーガルなものにするために、学級担任の傍ら、闘っていたということです。闘い方を知っていたということでもあります。いないなぁ、そういう同僚、周りに。まぁ、私もですが。措置要求制度、今度使ってみようかなぁ。次年度の勤務校の方向性がとっても怪しいので、そんな気分になります。

 この岡崎さんの体験談を受けて、名古屋大学の内田良教授が《裁判を行えば、パンドラの箱が開いて、いろいろなことがさらに見えてくることがわかってきました》と答えています。ここで言う裁判とは、小学校教員の田中まさお(仮)さんが起こした埼玉教員超勤訴訟のこと。現在の労働環境では、授業準備は1コマ5分しか確保することができない(!)という司法の見解を引き出した、あれです。やはり、闘わなければいけない。闘わなければパンドラの箱は開かないし、大内さんが言うところの「困難」に打ち勝つことはできません。

 

 日本の学校教育は「少ない予算と人員」でありながら、「仕事の量が膨大でかつ広範囲」という困難を抱えています。この状態を無理やり両立させる役割を果たしているのが、教員の残業をなかったことにする「給特法」だと言えます。

 

 71年に制定された「給特法」が際限なく教員の仕事を増やし、84年の臨時教育審議会で提起された教育の「自由化」や「個性化」も際限なく教員の仕事を増やし、さらには新自由主義路線の教育改革に伴う説明責任のための書類仕事までが際限なく押し寄せ、結果として「教員のなり手」がいなくなるほどに労働強化が進んでしまったというのがこの半世紀の大きな流れです。大きな流れと書きましたが、本書を読むと、解像度が飛躍的にアップして、小さな無数の流れも理解することができるので、ぜひ。

 では、この労働強化の流れによって、子どもたちはどうなったのかといえば、例えば「私は人並みの能力がある」について「とても」と答える高校生の割合が米国56%、中国33%に対して日本は7%だったり、「自分はダメな人間だと思うことがある」を肯定する高校生の割合が米国45%、中国56%に対して日本が73%(日本青少年研究所の「14年高校生調査」)だったり、要するにダメになっているということです。日本人の47%が月に1冊も本を読まない(文化庁の平成30年度「国語に関する世論調査」)、つまり知的好奇心が全く育っていない(!)といったことも含めて、

 

 教育の大失敗。

 

 教員も子どももしあわせではない。なぜこんなことになっているのでしょうか。大内さんの次の言葉が沁みます。

 

 内田さんが、「学校現場」をよくする提案をしているのにもかかわらず、当事者の教員から反発されることがあるのは、教員自身が自らの置かれている状態を客観視できなくなっているからではないでしょうか。内田さんの言葉だと「半径3メートルの世界」に入ってしまっている。教育は「未来社会の担い手を育てる行為」ですから、教員は現代社会がどう変化しているかを常にキャッチしていることが必要です。しかし、土曜日も日曜日も部活動で埋まっていれば、現代社会がどのように変化しているかを認識することも困難でしょう。「未来社会の担い手を育てる」教員にこうした労働条件を強いているのは、大きな間違いです。

 

 昨夜、投資家さんとお話をする機会がありました。投資という視点をもつと、世界全体がどのような力学で動いているのかが常に気になるようになるとのこと。未来のことも気になるようになるとのこと。故に勉強するようになるとのこと。私たち教員も、投資家さんに負けないくらい勉強すべきなのに。世界全体と未来に関心をもつべきなのに。残念ながら、半径3メートルの真っ暗な世界に閉じ込められてしまって、目の前のことをこなすだけで精一杯というのが現状です。だから日本の教育は迷走するのでしょう。

 

 

 第2章でも、第1章と似た議論が展開されています。第3章には我が家の長女が昨日今日とリアルに関わった入試のこと。そして第4章では、そもそも私たちが外国語を学ぶ意味って何なの(?)という英語教育の本質に迫った議論に耳を傾けることができます。英語教育学者・鳥飼玖美子さんの《言葉は道具ではありません。言語は人間の存在そのものであって思考の源です》という台詞、美しいなぁ。

 

 もうすぐ長女が帰ってくる頃です。

 

 おかえりなさい。