田舎教師ときどき都会教師

テーマは「初等教育、読書、映画、旅行」

落合陽一 著『忘れる読書』より。忘れるような本すらない人はダメだよ、というアイロニー。

 近代をおさらいするのにうってつけの一冊が、猪瀬さんが著された『ミカドの肖像』です。事実を不可視化するシステムの中で、視えないものをあえて視ようとする日本人のマインドが、圧倒的なボリューム感で描き出されています。猪瀬さんは、自身が「MIKADO」という名のロックバンドに行ったインタビューや、かつて、フランスの哲学者ロラン・バルトが皇居を「いかにもこの都市は中心をもっている。だが、その中心は空虚である」(『表徴の帝国』)と説いた表現を引き、

〈「あたかもこの空虚なシンボルの周りを回転しているかのよう」に動いている日本の現在のミカドについて立ち止まって考えていただきたい〉

 と同著の冒頭で提起しています。
(落合陽一『忘れる読書』PHP新書、2022)

 

 こんばんは。寺山修司(1935-1983)に『書を捨てよ、町へ出よう』というタイトルの本があります。もちろんこれは「本なんて読まずに、町へ出ようぜ!」という意味ではありません。捨てるような本すらない人は町を十分に楽しむことができないから「本くらい読もうぜ!」というアイロニーです。だから落合陽一さんの新刊『忘れる読書』を目にしたときも、

 

 これはアイロニーだな。

 

 そう思いました。おそらくは、忘れるような本すらない人は次の時代を十分に楽しむことができないから「本くらい読もうぜ!」というアイロニーでしょう。さすがはノビーこと落合信彦さんのお子さんです。『忘れる読書』には、忘れるどころか、猪瀬直樹さんの『ミカドの肖像』をはじめ、《デジタル時代の真の教養》を身につけるためにうってつけの本が、次から次へと登場します。 

 

www.countryteacher.tokyo

 

 猪瀬直樹さんの「ミカド三部作」シリーズの一作目にあたる『ミカドの肖像』について、落合さんは《この作品では、濃厚なストーリーが幾筋も折り重なっていて、群像小説と読めるぐらいです。もはやオールキャストが思い出せなくなるぐらい登場人物が多く、そのすべてが綿密な取材に基づくノンフィクションだという点に圧倒されます》と評しています。オールキャストは思い出せなくても、やはりその圧倒的な発見と到達は、

 

 忘れられない。

 

 

 落合陽一さんの『忘れる読書』を読みました。メディアアーティストと呼ばれる落合さんの思考を形作った27冊の本+α が、それらの読み方とともに詳しく紹介されています。ちなみに今の時代に読書をする意味は、落合さん曰く「思考体力をつけるため」「気づく力をつけるため」そして「歴史の判断を学び今との差分を認識するため」とのこと。やはり「本くらい読もうぜ!」です。

 

 忘れて、血肉化するくらいに。

 

 目次は以下。

 

 はじめに
 第1章 持続可能な教養

 第2章 忘れるために、本を読む
 第3章 本で思考のフレームを磨け
 第4章  「較べ読み」で捉えるテクノロジーと世界
 第5章  「日本」と我々を更新する読書
 第6章 感性を磨く読書
 第7章 読書で自分の「熱」を探せ

 冒頭の引用は第5章からとりました。教員不足や未曾有の円安など、問題だらけの現状を打破し、「日本」と我々を更新(アップデート)するためには、それこそ「歴史の判断を学び今との差分を認識する」必要があります。そこで重要になってくるのが、猪瀬さんの『ミカドの肖像』であり、山本七平(1921-1991)の『「空気」の研究』であり、小室直樹(1932-2010)の『危機の構造 ―― 日本社会崩壊のモデル』であり、戸部良一さんらの『失敗の本質 日本軍の組織論的研究』であり、鈴木大拙(1870-1966)の『日本的霊性』でありって、さすがは落合さんです。近代という「私たちの前提」を理解するために必要な重要文献が(おそらくは)過不足なく紹介されています。

 

 やはり、忘れていない。

 

 説明も、秀逸。

 

「更新」の本質はシンプルで、「〇〇をやめましょう」。今日と明日で考え方を変えてもOKな世界を生きましょう、という宣言でもあります。

 

 膨大な仕事量に悩む学校現場にも拡散したい言葉がサラッと出てくるところも秀逸です。大きな行事と通知表と研究授業をやめましょう。

 

 慣習を変えてもOKな学校を生きましょう。

 

 で、第5章に限らず、例えば第1章だったらニーチェの『ツァラトゥストラはこう言った』、第4章だったらノーバート・ウィーナーの『サイバネティックス ―― 動物と機械における制御と通信』、第6章だったら世阿弥の『風姿花伝』や村上春樹さんの小説など、その章のタイトルに相応しい書籍が紹介されています。古典から哲学・理工書・小説まで、いったいどうやったらこれだけの本を読むように動機づけられるのでしょうか。教員としてはそこが気になります。そして学級づくりや授業づくりに役立てたくなります。

 

 家庭環境の影響も大きかったのではないかと思います。父は、中学生の私に「ニーチェを読んでいない奴とはしゃべれない」と言うような人。そのため私の場合、子どもの頃から、「教養ってのは、身につけるもんだろ」といった「圧」を常に気配として感じていました。だから、もうほとんど必然という感じで本を読んできたのです。

 

「はじめに」より。そうか、やっぱり家庭環境か。落合信彦さんの息子さんだからな。ためしに教室で「ニーチェを読んでいない奴とはしゃべれない」って言ってみようかな。訴えられそうだな。その前に小学生にはちょっと早いな。「重松清を読んでいない奴とはしゃべれない」くらいがちょうどいいかな。

 

 とはいっても、「面白い人」が薦めてくる本は絶対的に信用しています。そういった意味では、幼い頃から、「面白い本に出会う機会」には恵まれていました。なぜなら、父である落合信彦の交友関係が非常に広く、自宅にいろんな大人が出入りしていたからです。実に多彩でスケールの大きな人たちが私に本を手渡してくれました。

 

 第2章より。うん、やっぱり家庭環境だな。サグラダ・ファミリアの専任彫刻家・外尾悦郎さんも遊びに来たって書いてあるからな。普通、外尾さん来ないからな。中学生のときに直々に『ガウディの伝言』を手渡されたら、そりゃ、すぐに読みたくなるだろうしな。

 ちなみに外尾さんの『ガウディの伝言』は私も読みました。名著です。著名人に勧められたり、東大の先生に「岩波文庫を100冊読みなさい」と言われて実践したり、落合さんは《実に多彩でスケールの大きな人たち》から様々な影響を受けて、その思考を、サグラダ・ファミリアのように強く美しくユニークに育てていきます。

 

 羨ましい限り。

 

 では、家庭環境に恵まれない子どもが文字通りの意味での「忘れる読書」に堕してしまわないためにはどうすればいいのか。文字通りの意味での「書を捨てよ、町へ出よう」に堕してしまわないためにはどうすればいいのか。本くらい読むようになるにはどうすればいいのか。

 

 公教育にできることはあるのか。

 

 落合さんに訊いてみたいな。