僕が東京都副知事だったころ、笑ってしまうような出来事がありました。茨城県の副知事から相談を受けたのです。彼は上野駅のコンコースで納豆フェアをやろうとしたが東京都の役人が待ったをかけた、おかしな話だから何とかしてほしいと言います。どういうことか。東京都の保健所の職員が言うには、納豆は駅のコンコースでは売ってはならない、生ものである納豆は水道の設置された場所でしか売ってはいけない、東京都の条例にそう書いてある、の一点張り。保健所の職員が見張りに来て、一向に話が進まないと茨城県副知事は訴えるのです。
担当部局を呼び説明を求めると、確かにそう書いてある。40年前につくられた条例だから、いまみたいに納豆をパックで売るのではなく、麦藁につめて売っていたから、衛生管理上の目的でそうなったようです。過去につくった規制、昨日の世界が未来を縛っている典型的な事例です。
(落合陽一、猪瀬直樹『ニッポン2021ー2050』角川書店、2018)
こんばんは。過去につくった規制、昨日の世界が未来を縛っている典型的な事例といえば、給特法(公立の義務教育諸学校等の教育職員の給与等に関する特別措置法)なんて最たるものです。制定されたのは昭和46年(1971年)。40年前どころか50年前の法律です。私はまだ生まれてすらいません。納豆よりも粘り強いこの法律の特徴を簡単にいえば、
① 教員には残業代を出さない
② その代わり給料4%アップ
ということです。問題はこの「4%」という数字です。なぜ「4%」なのか。なぜならば、50年前の教員は月平均8時間の残業をしていたから。8時間って、平成や令和の教員なら2日でこえます。過日の埼玉教員・残業代訴訟で、裁判官が原告の訴えを退けるも「法律は教育現場の実情に合っていないと思わざるをえない」と付言したのは、そういった現状をもとにしてのことでしょう。ファクトに合わないのであれば、変えればいい。データから構想を生み出して、変えればいい。落合陽一さんと猪瀬直樹さんなら、そう考えるのではないでしょうか。
落合陽一さんと猪瀬直樹さんの『ニッポン2021ー2050』を読みました。副題は「データから構想を生み出す教養と思考法」です。初版は2018年の10月31日。ビフォアー・コロナとはいえ、歴史に根をもつ猪瀬さんと、未来に根をもつ落合さんが同じ憂いをもって「次の時代」を構想しているからか、二人が描いている「ニッポンの明日の風景」はコロナ禍の今も全く色褪せていません。同じ憂いというのは《日本の近代は、ある時点で思考停止に陥ってしまったのではないか》という危惧に基づくものです。20代の頃にノビーこと落合信彦さん(落合陽一さんのパパ)の本にはまっていた時期がある私としては、猪瀬さんとノビーの対談本も読んでみたいところですが、それはさておき、目次は以下。
第1章 テクノロジーは社会課題を解決する
第2章 2021年の日本風景論
第3章 統治構造を変えるポリテックの力
第4章 構想力は歴史意識から生まれる
第1章 テクノロジーは社会課題を解決する
社会課題というのは平成の30年、いわゆる失われた30年が残していったそれのことです。 労働問題然り、人口問題然り、エネルギー問題然り、その他もろもろ然り。ただしこれらの社会課題は東京と地方ではその様相が全く異なるとのこと。猪瀬さんはそのことを肌感覚で理解しなければいけないと説きます。曰く《視点を変える、という経験がなければ本質は見えてこない》云々。東京生まれ東京育ちで「田舎教師ときどき都会教師」になった私にはわかりみが深く、かなりリアルな肌感覚です。
教育に関する課題も東京と地方では全く違う。
で、東京にせよ地方にせよ、社会課題の解決にはテクノロジーの力が欠かせないというのが落合さんの見解です。例えば高齢化に直面している地方の介護問題について、曰く《遠隔操作可能な介護ロボットを導入して、ロボットアームにおむつを取り替えてもらうということも可能になる》云々。想像するにちょっとディストピアな感じもしますが、過疎化が進んで誰にもおむつを取り替えてもらえないという未来はもっとディストピアなので、テクノロジーによる変化を恐れてはいけないのでしょう。
第2章 2021年の日本風景論
平成の轍を令和で踏まないために、テクノロジーによってもたらされる社会変化の本質を見失ってはいけないというのが第1章だとすれば、テクノロジーによって東京と地方の「共通項」に光を当て、近代を超克するような新しいニッポンの「風景」を描こうというのがこの第2章です。
「日本」という国をリアルに造り上げるために必要だったのが、風景です。もう少しだけ詳しくいうと「日本らしい風景」を人びとが共通のものとして、思い描くことができるようにすることでした。
猪瀬さんの言葉より。ここでいう「日本らしい風景」というのは、富士山、太陽、松、海などに代表される「銭湯の絵柄」的なものです。国民国家のスタートアップを任された明治初期のエリートたちは、バラバラだった国民に「日本らしい風景」という「共通項」を埋め込み、さらには中心に「ミカド」という「共通項」も埋め込み、想像の共同体を組織することで近代化を急ぎました。
この「銭湯の絵柄」に新たな一面が加わったのが高度経済成長期です。落合さんはそれを《ドラえもん的な風景》と呼びます。空き地があって、土管が放置されていて、放課後になると子どもたちがそこで遊んでいるというような、メディアによって生み出された心象風景。しかし今となってはその《ドラえもん的な風景》を目にすることはほとんどありません。代わって目にするのは、東京でも地方でも、落合さん曰く《コンビニ、ショッピングモール、スマホ・ソフトウェアプラットフォーム》です。でも、それなら「銭湯の絵柄」の方がユニークでいい。そこで落合さんが新しいニッポンの風景として提示するのが、以下。
僕はもう一つの選択肢として伝統的なものをテクノロジーに接続させるというものを提示したいと思っています。
さすがはテクノロジー推しの落合さんです。ブレません。そのブレなさは第3章にも続きます。
第3章 統治構造を変えるポリテックの力
ポリテックというのは、ポリティクス(政治)とテクノロジー(技術)を足し合わせた造語です。落合さん曰く《政治の課題をテクノロジーで解決する。テクノロジーの課題を政治的に解決する。そして政治とテクノロジーがそれぞれ変わっていく。これが「ポリテック」の意味です》とのこと。
まるで『一般意志2.0』のよう。
ポリテックと聞くと、東浩紀さんの『一般意志2.0』を思い出します。現代の情報テクノロジーを使えば、ルソーが提示した一般意志の概念を現実の政治に実装させることができるかもしれない。そうすれば、日本の統治構造の本質である強固な官僚制も崩れるかもしれない。そういった可能性を感じさせてくれた一冊です。しかし『一般意志2.0』が出版されてから10年、政治が変わった気配はほとんどありません。むしろ一般意志からは遠のくばかり。最近ニュースになっている「Dappi」(Twitterアカウント)をめぐる問題(ポリテックの悪用)など、いったい日本の政治はどうなっているのでしょうか。東さんも落合さんもテクノロジーの力に夢を見ます。しかし、
道路は変わったのに、政治は変わらない。
かつて高速道路のパーキングエリアはちょっとした軽食が食べられるだけの場所でした。猪瀬さんが『日本国の研究』を書いて道路公団改革を行ったあとの時代に生きているからこそ、僕らはサービスエリアのスタバで飲食したり、新築のモールで買い物したりすることができます。
これは落合さんの「まえがき」からの引用です。かつて猪瀬さんは数値とデータで霞ヶ関文学と対峙し、道路の風景を変えました。テクノロジーは数値とデータでできています。だから猪瀬さんの存在そのものがポリテックのようなものだなって、その闘い方を記録した『道路の権力』や『道路の決着』を読んだ私にはそう思えるのですが、どうでしょうか。つまりは「統治構造を変えるポリテックの力」を粘り強く使い続ける「人」がいなければ話にならないということです。
結局、人。やっぱり、生き方。
第4章 構想力は歴史意識から生まれる
落合くんが歴史的な視点から考えることの大切さ、言葉の力が大事だと語ってくれた。まさにその通りだ。
テクノロジーフレンドリーになって、東京と地方をつなげる新しい風景を描き、ポリテックの力を駆使して統治構造を変える。そういった構想力は歴史意識から生まれるというのがこの第4章です。猪瀬さんの新刊『カーボンニュートラル革命』に書かれていることなんて、まさにそういった構想力に基づくものです。
識字教育で有名なパウロ・フレイレ(1921-1977)は「読むことは、あなたの世界を広げる。でも、もしあなたが書くことができれば、世界を変えられる」というようなことを言ったそうです。上記の引用と照らし合わせると、歴史的な視点から考えるというのは「読むこと」に、そして言葉の力が大事というのは「書くこと」に置き換えることができます。公教育を通して子どもたちの言葉の力を鍛えていくためにも、落合さんや猪瀬さんに続く大人を育てるためにも、まずは「ニッポンよ!にほんよ!」、
給特法を何とかしてください。
おやすみなさい。