『キッド』に影響されてデ・シーカは『自転車泥棒』を作りました。アントニオとブルーノが路上に並んで座るシーンは『キッド』へのオマージュです。そして、『自転車泥棒』に影響されてケン・ローチやダルデンヌ兄弟は映画を撮り始めました。是枝監督もまた『キッド』やケン・ローチに影響されて映画を撮っています。
本書でこれらの映画を論じていくうちに、いつの間にかチャップリンの血をたどる作業になっていました。
弱者への共感以外に、これらの映画を貫くものがもうひとつあります。
子どもです。
(町山智浩『それでも映画は「格差」を描く』インターナショナル新書、2021)
おはようございます。先週、6年生の道徳の授業で「銀の燭台」という資料(東京書籍)を取り上げました。映画にもなっている、ヴィクトル・ユーゴーの『レ・ミゼラブル』をもとにした読み物です。一宿一飯の恩義を預かったにもかかわらず、司教の自宅から銀の食器を盗んで逃走&捕獲されたジャン・バルジャンに、司教は怒るどころか銀の燭台まで持たせたというストーリー。司教の振る舞いをきっかけにして、子どもたちが「過ちを許す」という価値について真剣に考えていたので、今週の道徳の授業でも同じ主題を取り上げ、改めて議論の俎上に載せてみました。取り上げた資料は、町山智浩さんの『それでも映画は「格差」を描く』に載っていた、以下の佐賀新聞の記事(21年6月23日)です。
「お金は持っていないけど、食いたか」。22日午後11時ごろ、男は佐賀市内のコンビニに陳列されていたクッキーを手に取り、店員にこう言った。店員は「待ってください」と呼びかけたが、男はクッキーを手にしたまま店外へ。男性店員が取り押さえた。
佐賀南署がクッキー1個(販売価格148円相当)を盗んだとして、盗みの疑いで逮捕した無職の男(65)。酒を飲んでいたが所持金はなく、身元を証明する運転免許証なども持っていなかった。
男は「おなかがすいていたので万引きした。我慢できなかった」と話しているという。住所も分からず、逃走の恐れがあると判断せざるを得なかったが、南署幹部は「クッキー1個で逮捕しなければならないなんて……」と複雑な思いをのぞかせた。
この記事を読んだ町山さんが「自分なら捕まえて事情を聞いた後で放免して、自分の財布から148円レジに入れておしまい」とツイートしたところ、怒濤の批判を浴びたそうです。具体的には「たとえ148円でも犯罪を見過ごすのか」「酒を飲んでいたんだから金はあった」「万引き被害でつぶれる店もあるんだぞ」「なら、日本の万引き被害を全部補償しろ」等々。
司教にもジャン・バルジャンにもしんどい世の中。
新聞記事と町山さんのツイートに寄せられた反応について考え、議論した後に、子どもたちは「許す許さないを考えるよりも、その万引きをなくすためにもっと支援をして、貧富の差を少なくしてほしい」「世の中は『支えてくれる人』がすごく大事なんだなと思った。支えてくれるから立ち直れたり、がんばれたりするから」「全員が納得することはできないから、難しい問題なんだと思いました」「個人的には、理由があっても万引きはいけないと思った。でも、ネットでたたくようなことではないし、誰かの発言に便乗するのも違うと思った。もっと見方や考え方を広げていきたい」「相手を理解しようとしたり、生活が大変だということを想像しようとしたりする人が少ないんだなと思いました」等々の感想を綴っていました。
『プラットフォーム』の主人公は、格差のなかで足を引っ張りあうのではなく、この格差社会そのものを変えなければいけないと気づき、人々を目覚めさせるため、プラットフォームに乗って階層のどん底へと降りて行きます。
そして、プラットフォームが最底辺にたどり着いた時、再び上昇しようとするプラットフォームにひとりの子どもを乗せて送り出します。それは未来へのメッセージです。本書で取り上げた映画のすべてがそうであるように。
町山さんが取り上げた映画のすべてがそうであるように、私たち教員にとっては教え子たちの全員が未来へのメッセージです。学校の教員がやっていることは、映画監督のケン・ローチや是枝裕和さんがやっていることと本質的には変わりません。社会が先か子どもが先か。社会は子どもに先行します。でも、それにもかかわらず、子どもは社会の将来の型を変えることのできるように扱われるかもしれない。
だから映画は「子ども」を描く。
町山智浩さんの『それでも映画は「格差」を描く』を読みました。シリーズ「『最前線の映画』を読む」の Vol.3です。書店で見かけ、取り上げられている映画のタイトルに見覚えのあるものが多かったので購入しました。目次は、以下。
#1『パラサイト 半地下の家族』
#2『ジョーカー』
#3『ノマドランド』
#4『アス』
#5『ザ・スクエア 思いやりの聖域』
#6『バーニング 劇場版』
#7『ザ・ホワイトタイガー』
#8『ロゼッタ』
#9『キャシー・カム・ホーム』
#10『わたしは、ダニエル・ブレイク』
#11『家族を想うとき』
#12『万引き家族』
#13『天気の子』
#4~#8以外の映画は観ました。それほど多くの映画を観ているわけではないので、弱者への共感とか子どもとか格差とか、そういったモチーフを含む映画に自然と惹かれるのだろうなぁと思います。職業病かもしれません。
例えば#3の『ノマドランド』(クロエ・ジャオ監督)。
私たち教員が子どもたちを肯定的にとらえるように、クロエ・ジャオも主人公のファーンを肯定的にとらえます。子どもたちやファーンの生きづらさの背景に「格差」社会の暗部がはっきりと見えていても、です。
もともとクロエ・ジャオの興味は社会問題の告発にはない。『兄が教えてくれた歌』でも、先住民居留地の貧困の原因は掘り下げられない。『ザ・ライダー』では、都ウッ上人物全員がラコタ・スー族であることにすら触れない。
それよりも、ジャオは彼らを美しく、詩的に描くことに全力を注いでいる。
例えば#11の『家族を想うとき』(ケン・ローチ監督)。
クロエ・ジャオと異なり、ケン・ローチは社会問題を描くことに全力を注ぎます。教育でいえば、過去最低の倍率に落ち込んでいる「教員採用試験」の背景や、過去最多を記録している「精神疾患を理由に退職した教員」の背景にカメラを向けるということになるでしょうか。教育にせよ以下の介護にせよ、なぜこんなことになっているのか。
しんみり話していたアビーだが、そそくさと次に移動する準備を始める。名残を惜しむモリーにアビーは「お客さんとあまり親しくなってはいけないと言われてるんです」と言う。
介護から人の心を抜き去ってどうしようというのか。
学校でいえば、保護者とあまり親しくなってはいけない、ということでしょうか。そんなことを含め、過日、現状を変えるべく裁判を起こした教員に裁判官は「授業準備は一コマ5分」「保護者対応は労働ではない」と言います。
教育から人の心を抜き去ってどうしようというのか。
例えば#13の『天気の子』(新海誠監督)。
この映画が『それでも映画は「格差」を描く』に入っていてちょっとホッとしました。同じようなことをブログに書いたことがあったからです。クライマックスの場面で主人公の帆高が「天気なんてどうでもいい!」と叫びます。言い換えると、これは「社会なんてどうでもいい!」ということ。子どもにそんなことを言わせてしまう社会は間違っている。
でも、それに気づいてもがく教員に居場所はない。
消費税が上げられる。生活が苦しくなるのに誰も戦わない。コロナでこれだけの死者が出ても政府は税金を使って全国の病院からベッドを削減する。でも誰も戦わない。どうせ勝てないさと諦めたほうが賢いとされ、それで勝ったつもりの時代。本当は踏みにじられているのに。
でも、それに気づいてもがく人間に居場所はない。
町山さんの本を読んだのは初めてです。読書の秋。加えて、朝から雨が降っているので、晴耕雨読。Vol.1と Vol.2も読んでみたくなりました。
教師には「動機」がある。
それでも教師は「未来」を描く。