「ビートルズのポール・マッカートニーは、最初の結婚のとき、子どもを4人ともふつうの公立の中学に行かせたらしくて。デザイナーのステラ・マッカートニーのインタビューを読んだとき、彼女は最初、セレブリティーのくせに私立に行かせてくれなかった親の決断を許せなかったけど、いまは、それは彼女の人生に起きたことで最良のことだったと思ってると言っていた。自分とは違う世界で生きる人たちを知るのは健康的なことだったって」
(ブレイディみかこ『ぼくはイエローでホワイトで、ちょっとブルー2』新潮社、2021)
おはようございます。みんなが歌っているときには歌わない。でも、みんなが歌い終わった途端に歌い出す。それも真剣に。ビートルズを歌っていたわけではありませんが、昔、クラスにそんな男の子がいました。おもしろすぎるので、とりあえず指導はするものの、のれんに腕押し。
懐かしいな。
先日、5年生の音楽の授業を観たときに、似たタイプの子を見つけて懐かしくなりました。みんなで手拍子をしてリズムをとっているのに、その子だけ違うタイミングで手を叩きます。それも真剣に。放課後、検討会の場でそのことを話題にしたところ、若手の先生がこう言うんです。
彼なりの自己認識なんですよね、きっと。
なるほど。そういう見方・考え方もあるのか。他者の目を意識した自己アピールではなく、意識しているのはあくまで「我」というわけです。ブレイディみかこさんの言葉を借りれば「 I 」の獲得です。同調圧力のかかる教室で、自己の喪失に抗い、セルフアウェアネスを高めている。
極めて健康的な振る舞い。
とはいえ、普通は叱責されます。スクールライフって、そんなもの。名門のカトリックの小学校を卒業したのに、カトリックの中学校は選択せず、ステラ・マッカートニーよろしく公立の中学校、それも「元底辺中学校」に進学した、ブレイディさんの一人息子も次のように言ってます。
「でも、ライフって、そんなものでしょ。後悔する日もあったり、後悔しない日もあったり、その繰り返しが続いていくことなんじゃないの?」
カッコいい。13歳の自己認識、かくあるべし。
ブレイディみかこさんの『ぼくはイエローでホワイトで、ちょっとブルー2』を読みました。ブライトンに住んでいる著者が、中学生の息子さんとの日常を記したノンフィクション(2019年の本屋大賞のノンフィクション部門で大賞!)の続編です。母は元保育士でライターの日本人、父は労働者階級のアイルランド人、だから息子さんはイエローでホワイトで、《どこかに属している気持ちに》なれなくて、
ちょっとブルー。
この「ちょっとブルー」という感情を《自分の孤独を増殖させることを知らないものは、もはや動き回る群集のなかに一人でいることはできない》というボードレールの『パリの憂鬱』に接続させると、その特権的な価値に気付きます。作家の平野啓一郎さんがそう言っているのだから間違いありません。
ちょっとブルー ≒ 何とも言えず憂鬱
僕は、中高時代は、何とも言えず憂鬱だったが、ボードレールが好きになって、「憂鬱」とか「倦怠」には、詩的な、ほとんど特権的な価値があると発見して、結構それで精神的に保ってた気がする。そういう理屈が成り立つのが文学の世界だった。気が滅入る、という状態は、そういう癒され方もある。
— 平野啓一郎 (@hiranok) October 10, 2021
いうなれば、ブライトンの憂鬱。イエローでホワイトで、ちょっとブルーだからこそ、常日頃からいろいろ考え、自己を喪失することなくセルフアウェアネスを高めることができるというわけです。
自己認識が高まるとどうなるか。
「いや、かわいそうっていうか、そういうんじゃない。ただなんか、あのシチュエーションは悲しかった。言ってる父ちゃんも、言われてる僕も、悲しい」
あのシチュエーションというのは、期末試験でジョークみたいな点数をとってしまった息子さんが、父親から「俺のようになるな」と《労働者階級の父親が子どもに説教するときの決まり文句》を浴びせられる場面のことです。ちょっとブルーなぼくは二足の草鞋を履いたまま涙します。二足の草鞋というのは、言われてる僕も悲しいという「自分の靴」と、言ってる父ちゃんも悲しいという「他者の靴」のこと。これぞブライトンの憂鬱がもつ特権的な価値です。ちょっとブルーなぼくは、
他者の靴を履くことができる。
息子の涙を目にした母曰く《「労働者階級のもののあわれ」みたいな感覚がこの年齢でもわかっているんだなと思った》云々。元祖『ぼくはイエローでホワイトで、ちょっとブルー』で注目を集めた「エンパシー」です。このエンパシーという言葉をテーマにして書かれた副読本『他者の靴を履く アナーキック・エンパシーのすすめ』でいえば、ちょっとブルーなぼくは、13才にしてすでに《「わたしがわたし自身を生きる」アナキズムと、「他者の靴を履く」エンパシー》が調和し始めているということになります。だから、カッコいい。
イエローでホワイトで、ちょっとブルーなぼくの周りは多様性に開かれていて、労働者階級に属している父親であったり、不要品目当てに自宅にやって来るルーマニア移民であったり、精神の病を患っている祖母であったり、いろいろいます。それから家に帰ったら鬱の母親が寝ている友人のティムであったり、イスラエル人をぶっ殺してやりたいなんて粋がっているパレスチナ人の同級生(♂)であったり、ちょっと浮いていたアフリカ系のクラスメイト(♀)であったり、学校にもいろいろいます。
多様性はややこしい。
ややこしいからこそ考える。考えるからこそカッコよく、そしてやさしくなれる。冒頭の引用に戻れば、自分とは違う世界で生きる人たちを知るのは健康的なことだということです。
健康 VS. 不健康
日本の小中学校には「自分とは違う世界で生きる人たちを知る機会」があまりありません。周りにいるのは「自分と同じ世界で生きる人たち」ばかりです。だからこそ息苦しくなって、みんなとは違うタイミングで音を出したくなる子が出てくるのでしょう。自分の孤独を増殖させることを知らないと、手のひらの上の群集のなかで「 I 」を失ってしまうからです。ここ日本で「自分とは違う世界で生きる人たち」を知るためには、多様性に開かれた「ワイルドサイド」をほっつき歩くしかない。
ちょっとブルーなぼくと同い年の我が家の次女は、カッコいいではなく、カワいい路線まっしぐら。ライフって、そんなもの。
子育てって、そんなもの。
やれやれ。