「結局、バッグに退職届を忍ばせている時点で、私たちは辞められないんだ。年月を経るたびに重たいものを背負わされていくし、ままならないことも増えていく。どんどん上の人間がバカに見えてくるし、バタバタしている自分がアホらしくなっていく。でもね、そういう状況に追い込まれれば追い込まれるほど、本が愛おしくなっていくんだよね。というか、いまの自分を逃がしてくれる救いの物語が、タイミングを見計らっていたかのように現れるんだ。あれって本当に不思議だなぁ」
(早見和真『店長がバカすぎて』ハルキ文庫、2021)
こんにちは。なぜ代休なしの土曜授業なんてものを続けているのか。なぜ法的根拠のない通知表なんてものをボランティア(ただ働き)で作り続けているのか。労働環境の劣悪さゆえに教員不足が深刻化しているのに、なぜ仕事を減らすどころか増やそうとするのか。
校長がバカすぎて。
毎年そう思っているのに何も変わらないどころか年々ひどくなっていくのは、結局、私がバカすぎて、ということでしょうか。
早見和真さんの『店長がバカすぎて』を読みました。タイトル買いしたのは久しぶりというか初めてかもしれません。校長がバカすぎて、と脳内変換しつつの購入です。まぁ、タイトルがタイトルだけに、内容についてはそれほど期待していませんでしたが、これがまためちゃくちゃおもしろくて、言い換えると学校にも当てはまることがたくさんあって、読了後すぐに続編の『新! 店長がバカすぎて』も買って読んでしまいました。もしかしたらそれほど期待していなかったからこそ、「傑作だ!」と思えたのかもしれません。いわゆる「逆谷原効果」ってやつです。
いわゆる?
「これってたぶん本に限らなくてさ。たとえば谷原をどっかの男に紹介するとき、前もって『超絶美人!』って伝えてたら、たぶん目も当てられない結果になるでしょう? 逆に『ひっどいブサイク』って言ってたら『いやいや、カワイイじゃん』ってなると思うんだよね。何かを誰かに紹介するって、つまりはそういうことなんじゃないのかな」
逆谷原効果というのは、つまりはそういうことです。
主人公の谷原京子に汎用性のあるセオリーを説いているのは、谷原が憧れている先輩・小柳真理です。二人は吉祥寺にある武蔵野書店で働く書店員で、谷原は20代の契約社員、小柳は30代の正社員。教員でいうところの常勤講師と正採用の関係に当たります。二人の上司として登場するのが山本猛店長で、この校長、否、この店長が、谷原や小柳の目から見るとあまりにもバカすぎて、「ふざけんな!」というのがこの小説の初期設定です。店長がバカすぎれば、校長がバカすぎる学校と同じように、20代、30代にありがちな「私の仕事と人生、これでいいの?」という問いが生まれます。同時に、誰かに伝えたくなるエピソード(愚痴)もたくさん生まれます。
店長も校長も、話が長すぎる。
もっと頭に来ることがある。私が何よりも許せないのは、それこそ書店の店長という立場であるくせに、この人がたいして本を読んでいないことだ。
うん、頭にくる。バカすぎる。学校の教員という立場であるくせに、たいして本を読んでいない人に対してもちょっとそう思う。とはいえ「バカすぎて」が最終的には「いやいや、カワイイじゃん」と思えてくるのもこの小説の設定というか、それこそ「谷原効果」です。
目次は以下。
第一話 店長がバカすぎて
第二話 小説家がバカすぎて
第三話 弊社の社長がバカすぎて
第四話 営業がバカすぎて
第五話 神様がバカすぎて
第六話 結局、私がバカすぎて
内容についてはネタバレになるので詳しくは書きませんが、改めて目次を眺めていると、他者理解の難しさや他者の靴を履くこと(エンパシー)の難しさを伝えてくれる小説のようにも思えてきます。バカがたくさん出てくるからです。
2学期に実施した「他者理解」をテーマとした総合の学習(4年生)で、単元の最後に「他者理解 できないやつは バカやろう」&「自己理解 できないやつも バカやろう」と詠んだ子がいました。言葉の選び方がそもそもバカやろうですが、バカやろうであると同時にカワイイな、とも思いました。店長だけでなく、谷原もその他の登場人物も、バカであると同時にカワイイ存在なんですよね。他者理解の出発点は、他者の両義性を理解することにあります。だからこそ、そういった両義性をおもしろがるゆとりを、今夜、
サンタに頼みたい。
「ああ、やりがいの搾取ってやつね。やりがいさえ与えておけば、社員は給料が安くても喜んで働くっていう。一時期雑誌にもよく出てた」
「私たちはその ”やりがい” まで取り上げられてるじゃないですか」
やりがい搾取、書店業界だけでなく、そして一時期ではなく、学校現場では依然として行われています。労務管理の無法地帯です。書店員のやりがいが「物語と読者をつなぐこと」だとすれば、教員のそれは「社会と児童をつなぐこと」。だから当然、書店員に物語を読む時間が必要なように、教員には社会を知る時間が必要になります。
昨日、長い2学期が終わって、ようやく一息つくことができました。帰路、少し遠出してライブハウスへ。そこで約2時間ほど、「うたつくり うたうたい ピアノ弾き」による「うた」を楽しみました。絵本の読み聞かせをしてもらっているようで、くたくただった身体に沁みたなぁ。
感動をうたに。
小学4年生が国語の授業で「感動を詩に」表わすのと同じです。教員にゆとりがあれば、「感動をうたにして生きている人もいるんだよ」って、リアリティーをもって伝えることができるのに。書店員が小説家のサイン会を開くように、教員が「うたつくり うたうたい ピアノ弾き」を学校に呼んで授業をすることもできるのに。そういったゆとりをつくりましょうよ、校長。
教員にゆとりをください。
メリークリスマス。