日本では「みんな同じ」だった。
肩につく髪は結ぶこと、髪は染めないこと、スカートの長さはひざ下3センチであること、靴下は学校のエンブレムがついた白であること、靴は黒のローファーであること、バッグは学校指定の黒い革のものであること。
すべてを一様に決められると、おのずから考えることがなくなった。それがアイにはありがたかった。没個性を肯定される世界では、自分のことなど何も考えずに過ごしてゆくことが出来た。
(西加奈子『i』ポプラ文庫、2019)
こんにちは。GWが終わり、昨日は久し振りの出勤でした。連休前よりも行き帰りの電車が明らかに混んでいたのは、covid-19 のユニークさゆえでしょうか。covid-19 の特徴は、これまでのウイルスとは違って「怖いけど怖くない」という矛盾した特性をもつところ。だから油断をしてはいけません。小敵と思って油断し、考えることを止めてしまうと、あっという間に大敵となって襲いかかってきます。油断大敵。先人は実に「アイ」のある言葉を遺しています。
この世界にアイは、存在する。
西加奈子さんの小説『i』を読みました。主人公の名前はワイルド曽田アイ。アメリカ人の父と日本人の母をもつ女の子です。アイは日本語で「愛」。英語では「I」。アイという名前には、両親の《自分をしっかりと持った愛のある子に育ってほしい》という願いが込められています。娘につけた名前に恥じない生き方をしている両親ですが、二人ともアイとは血がつながっていません。
アイは養子です。
生まれたのは1988年。現在も混乱が続いているシリアで生まれ、物心がつく頃にはすでにアメリカで暮らしていました。だからアイには本当の両親の記憶もシリアの記憶もありません。戦禍を逃れ、恵まれた家庭の養子となったアイは《選ばれた自分がいるということは、選ばれなかった誰かがいるということだ。どうして自分だったのだろう。どうして》という気持ちを抱えたままニューヨークで育ちます。中学校からは、父の仕事の関係で日本へ。
「この世界にアイは存在しません。」
授業の初日、高校の数学教師に言われたこのひとことから小説が始まります。アイというのは虚数の単位である「i」のこと。 imaginary number の「i」です。イマジナリー、すなわち想像上の数だからアイはこの世界に存在しない。高校生になるとそんな不思議な数のことも勉強するようになるんだよというわけです。
「この世界にアイは存在しません。」
教師の意図とは別に、この言葉はアイの胸に居座り続けることになります。複雑な生い立ちと、もともともっている気質によって、アイは自我の確立に困難を覚えていたからです。血のつながり(肉親)と、地のつながり(母国)を断たれた、この世界。西加奈子さんは、誰にももたれかかれないと思っているアイを通して《アイデンティティとは何か》を描いていきます。
みんな同じ。
みんな違う。
日本では「みんな同じ」が前提だった。裏を返せばニューヨークでは「みんな違う」が前提だった。アイはニューヨークの学校のことを《カラフルな学校》と表現しています。そして《カラフルな分だけ生きがたかった》と回想します。個性を尊重される世界では、自分の考えを常に求められるからです。
あなたはどう思うのか。
あなたは何をしたいのか。
誰にももたれかかれないと思い、物心がついたときからずっと「この世界と私」について考え、悩み、揺れ動いていたアイにとって、その状況はきつい。だから《没個性を肯定される世界では、自分のことなど何も考えずに過ごしてゆくことが出来た》という日本の学校を《ありがたかった》と感じています。学校ではいったん考えることをやめられるからです。
みんな同じは、楽(ラク)。
みんな違うは、苦。
アイと同じハーフ(ダブル)の子を主人公としたブレイディみかこさんの『僕はイエローでホワイトで、ちょっとブルー』を思い出しました。イギリス人の父と日本人の母をもつ、ちょっとブルーな中学生の僕。その僕と母が多様性について話しているくだりに《楽ばっかりしていると、無知になる》という台詞が出てきます。多様性は物事をややこしくする、でも多様性はいいことだ、それはややこしさゆえに考えることを求めるから。そういった会話です。
イエローでホワイトな僕もハーフで、アイもハーフです。容姿を含め、みんなと違うという前提が、二人に考える機会を与え続けます。そのことをプラスに感じるにせよ重く感じるにせよ、二人がともに聡明な若者として映るのは、考え続けているからでしょう。生まれたときから2歳までをイランのテヘランで、小学校入学から5年生までをエジプトのカイロで過ごしたという著者の西加奈子さんだって、考え続けてきた結果としての「小説家」に違いありません。人間は考える葦ですからね。先人はやはり実に「アイ」のある言葉を遺しています。
「この世界にアイは、」
アイは考え続け、アイデンティティの袋小路に迷い込んでいきます。さて、その袋小路から出ることはできるのでしょうか。巻末には又吉直樹さんと西加奈子さんの対談が収録されています。又吉さんが「ぐっときた」というラストシーン。必読です。
Before covid-19 から、with covid-19へ。
みんな同じから、みんな違うへ。
無知から、考えるへ。