天皇をミカドという言葉に置き換えてみると、さながら外国人のように日本及び日本人の特殊な生態をつかみとることができはしまいか。
ついでに、彼らの鏡に映じた天皇制の痕跡を丹念に蒐集したらどうか。
そう考えて、僕はヨーロッパを「巡遊」したのだった。自分の眼と耳で見聞きしたさまざまな事柄が天皇制という抽象的な響きに別の音色をつけ加えてくれた。
(猪瀬直樹『ミカドの肖像』小学館文庫、2005)
おはようございます。巡遊はともかく、帰省くらいはしたいところですが、このコロナ禍です。年末年始とはいえ、おいそれと「ただいま!」というわけにはいきません。どうしようかなぁ。
実家は小平にあります。猪瀬直樹さんの『ミカドの肖像』の最後に登場する、哲学者の中村雄二郎さん(1925ー2017)が住んでいた鷺宮と同じ「西武新宿線」沿いです。中村さんは、元西武百貨店会長の堤清二さん(1927ー2013)に《ああ、うちのお客さんですね》と言われたそうですが、そうすると私は「ああ、うちのお客さんだったんですね」となるでしょうか。西武新宿線だけでなく、西武球場や西武遊園地、それから西友など、子どもの頃から「西武」に囲まれて育ちましたから。通っていた小学校には、西武ライオンズの青い帽子をかぶっていたクラスメイトがいっぱい。だから子ども心にこう思っていました。
西武って、何だ?
猪瀬直樹さんの『ミカドの肖像』を読みました。第18回大宅壮一ノンフィクション賞を受賞している、猪瀬さんの代表作です。『土地の神話』と『欲望のメディア』に先行する、いわゆる「ミカド三部作」と呼ばれるシリーズの一作目にあたる作品でもあります。約900頁にも及ぶ『ミカドの肖像』の構成は、以下。
第Ⅰ部 プリンスホテルの謎
第Ⅱ部 歌劇ミカドをめぐる旅
第Ⅲ部 心象風景の中の天皇
第Ⅰ部は、堤清二の父親である堤康次郎(1889ー1964)と、堤清二の異母弟である堤義明(1934ー)が築いた「プリンスホテル」をめぐる冒険。第Ⅱ部は、1885年にロンドンで初演され、欧米社会に日本のイメージを敷衍したとされる「オペレッタ・ミカド」をめぐる冒険。そして第Ⅲ部は、祖先崇拝のツール&脱亜入欧のイメージ・メーカーとしての役割を担うことになった、明治天皇の「御真影」をめぐる冒険です。
家庭と学校と地域をめぐる3つの冒険を通して子どもたちの実態が立ち上がっていくのと同じように、プリンスホテルとオペレッタ・ミカドと御真影をめぐる3つの冒険を通して「空虚な中心」たる天皇の実態を立ち上げようとした、猪瀬さんの大胆かつアクロバティックな試み。文化人類学者の上田紀行さんは、解説に《この作品がドライな事実性に基づきながらエンターテイメントとしても一流であるのは、「外部」に立つことで「深層」構造が浮かび上がるというミステリーにも似た逆説によるものだろう。》と書いています。パラフレーズすると「村上春樹さんの『羊をめぐる冒険』にだって負けないくらいおもしろい冒険が描かれているから、900頁近くもあるけど気後れすることなく手にとってみましょう」となります。ならないけど。いずれにせよ、手にとってよかった。
第Ⅰ部 プリンスホテルの謎
プリンスホテルといえば、私にとっては「品川プリンス」です。昔々、パートナーと一緒に初めて泊まったホテル。幼少期は「西武」に囲まれて育ち、新しい家族の原点には「プリンスホテル」があるのだから、私の人生は「堤家」の手のひらで踊らされているようなものかもしれません。
プリンスホテルって、何だ?
堤家は、その天皇家の ”藩屛” である皇族の宮殿と宅地を収奪しそのブランドを借用することによって、新時代のチャンピオンに成り上がったといえよう。戦前の天皇制下では、天皇家を含めて皇族はいっさいの税金を免除されるという特権を有していた。その特権によって、天皇家およびその一族は末代までその繁栄を保証されるはずだった。同じことが、”西武王国” においても実質的に適用されようとしている・・・・・・。
堤康次郎は旧皇族の土地に目をつけていた。それらの土地は ”空虚な中心” の飛び地であった。戦後、堤康次郎は動物的嗅覚を駆使しながら《現金をほとんど使わないで》&《想像を絶するほどの安価で》、それらの土地を次々と手に入れていった。その過程は第Ⅰ部・第二章「土地収奪のからくり」に詳しい。
先代の事業を引き継いだ堤義明は、そこにホテルやゴルフ場をつくり、プリンス(皇太子)と名付けることによってブランド化に成功した。大衆社会の到来も相まって、ミカドは ”視えない” 肖像として日常生活に溶解し、ジャパン・アズ・ナンバーワンと形容された時代の欲望のメカニズムへと転化していった。
『ミカドの肖像』が発表されたのはバブル前夜の1986年。
堤義明さんが世界一の金持ちと認定されたのが1987年。
日本社会が「カネと土地」に浮かれているときに、猪瀬さんは「プリンスホテルって、何だ?」という問いを糸口に、西武王国が蓋をしていた土地収奪の過去に光を当てたというわけです。その結果、堤家が展開していたビジネスの倫理性に「問い」を突きつけることになります。
当時40歳だった猪瀬さん曰く《しかし、日本人はカネ儲けよりも自分自身を探すことのほうが緊急である、と僕は信じている》云々。カッコよすぎます。学校教育に置き換えれば、テストの点数よりもアイデンティティーを確立することのほうが緊急である、となるでしょうか。それにしても、私の日常生活にもミカドが溶解していたなんて。西武って、何だ。プリンスホテルって、何だ。やはり「なぜ」は大切です。
第Ⅱ部 歌劇ミカドをめぐる旅
自分自身を探すべく、さながら外国人のように日本及び日本人の特殊な生態をつかみとるべく、猪瀬さんはアメリカ合衆国のミシガン州へと旅立ちます。そこに「ミカド」という名前の町があるからです。
ミカド町って、何だ?
天皇を意味するミカドという言葉が、フランスの音楽グループの名称となっている事実。あるいはミカドゲームとなってヨーロッパの子供たちのありふれた遊びになっているという事実。また、アメリカ合衆国ミシガン州に、百年前にミカドという町が誕生していた事実。いっけん、日本となんの因果もないはずの地平で、ミカドは独り歩きしていた。なぜ、「ジャパン」ではなく「ミカド」が流通していったのか。ミカドが独り歩きしていた原因は?
原因は、ギルバート&サリヴァン作のオペレッタ・ミカドです。ミカド町やミカドゲームのルーツは歌劇ミカドにあり。アメリカに飛び、ヨーロッパに飛び、猪瀬さんはそのことを突き止めます。これぞ探究。上田紀行さんが《私は自分が指導する大学院生に猪瀬氏の著作を読ませている》と書いていますが、長女の高校でもそうしてほしいなぁ。総合的な「探究」の時間があるのだから。パパが勧めても読まないし。嗚呼。
オペレッタ・ミカドの初演は明治維新から17年後の1885年。場所はロンドン。独裁者ミカドの死刑愛好癖に、死刑執行長官をはじめとする町の役人たちが翻弄されるという筋書きです。主題は英国社会への風刺で、皮肉の対象は政治家と官僚たち。猪瀬さん曰く《英国では『ミカド』といえば、百年前も、現在も、喜劇の代名詞である》云々。歌劇ミカドの誕生秘話も、めっちゃおもしろい。でも割愛。ミカドは歌います。
朕の崇高なる意図を やがて実現する――
それは罪にふさわしい刑罰を定めること
罪に夏を合わせること
閉じ込められた囚人それぞれを
心ならずも無邪気な娯楽の種にすることだ
森鴎外はミュンヘンで、鶴見俊輔はニューヨークで、そして猪瀬さんはロンドンで『ミカド』を観ます。それくらい歌劇『ミカド』は時間と空間をまたいで独り歩きを続けていたということです。さらには《鹿鳴館の舞踏会と較べものにならないくらいの規模で日本の風俗を西欧社会に広めていた》とのこと。知らなかったなぁ。教科書に載っていた記憶もありません。
実際には「日本」ではなく「どこにもない国」という設定だった『ミカド』が、大衆の興味・関心をひき、間違ったイメージが消費されていくという構図は、実際には選挙資金収支方報告書帳簿記載漏れにすぎなかった(Wikipedia)のに、メディアがおもしろおかしく報じたために、東京都知事を追われることになってしまった猪瀬さんの身の上話とかぶります。
猪瀬さんが野に下ったことが、長い影法師となって、コロナ禍に喘ぐ東京の ”いま” をどのように支配しているか。ミカドのみぞ知る。
第Ⅲ部 心象風景の中の天皇
明治天皇の御真影はイタリア人エドアルド・キヨソーネが描いた肖像画を写真に撮ったものだった。その「絵」は西洋人の面立ちをしていて、猪瀬さん曰く《国籍不明の架空性を付与されることで「御真影」としての完成度を高め》ていた。そこには脱亜入欧のイメージ戦略も付与されていた。
知らないことばかり。
昨日までの山も川もたしかに昨日のとおり同じ場所にあれば不安はないが、文明開化はいままでの環境や習慣に急激な変化をもたらした。明治天皇の「御糞」までもが「一君」の手ざわりとして求められた事実は、空間の拡大する速度に実感が追いつかず、アイデンティティの危機に瀕していた証左である。しかし、当然のことだが、「御糞」よりも最新の複製技術がもたらした成果のほうが新しい空間のシンボルにはふさわしい。
明治維新によってアイデンティティの危機に瀕した「一君万民」を、複製技術と御真影が救ったという話です。明治天皇の排泄物ですら求められたというのだから、その危機感は相当なものです。うんこドリルじゃないですが、小学生が興味をもつこと間違いなし。国づくりにも、クラスづくりにも、シンボルって、大事。校長室に歴代校長の写真が飾られているのも、御真影の名残かもしれません。ちなみに現在の日本のシンボルといえば、
富士山。
第Ⅲ部には、御真影とともに富士山や松や桜や太陽など、いわゆる「銭湯の絵柄」として残されているような風景も、複製技術によって大量に印刷・頒布され、バラバラだった日本人の心象風景をかたちづくっていったという話が書かれています。銭湯の絵柄を背景にして、視える肖像たる「天皇制」が可視化されていった時代といえるでしょうか。視えない肖像として、日常生活に融解していった戦後とは逆のベクトルです。繰り返しますが、知らないことばかり。
西武って、何だ。
子ども心に抱いていた「問い」が、こんなふうに展開していく可能性もあったのだなって、そう思えた大部の傑作『ミカドの肖像』でした。大切なのは、問いをもって、知ろうとすること。来年もまた「問い」と「探究」の大切さを子どもたちに伝えていければと思います。
よいお年を!