田舎教師ときどき都会教師

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猪瀬直樹 著『天皇の影法師』より。なぜ森鴎外は元号にこだわったのか。

 遺言は、こう続いている。
「死ハ一切ヲ打チ切ル重大事件ナリ。奈何ナル官憲威力ト雖此ニ反抗スル事ヲ得スト信ス。余ハ石見人森林太郎トシテ死セント欲ス。宮内省陸軍皆縁故アレドモ生死別ル、瞬間アラユル外形的取扱ヒヲ辞ス。森林太郎トシテ死セントス、墓ハ森林太郎墓ノ外一字モホル可ラス。書ハ中村不折ニ依託シ宮内省陸軍ノ栄転ハ絶対ニ取リヤメヲ請フ。手続ハソレゾレアルベシ。コレ唯一ノ友人ニ云ヒ残スモノニシテ何人ノ容喙ヲモ許サス」
「一字モホル可ラス」と遺言にあるように確かに墓石には「森林太郎墓」とだけ彫られていて、位階勲等どころか戒名などもいっさいない。が、向かって左側面に「大正十一年七月九日歿」とある。
(猪瀬直樹『天皇の影法師』中央文庫、2012)

 

 こんにちは。森林太郎というのは、もちろん森鴎外のことです。舞姫の森鴎外です。元号考の森鴎外です。そして横浜市歌の森鴎外です。横浜で生まれ育った友人によれば、横浜市の子どもたちは歌詞を見ることなくスラスラと歌えるとのこと。はまっ子に「果なく榮えて行くらん御代を」と投げかければ、合い言葉のように「飾る寶も入り來る港」と返ってくるというわけです。ちなみにこの歌詞の意味は「この果てしなく栄えてゆく天皇陛下の治世を彩る文物が、今日も横浜港から入ってきます」となります。天皇陛下の治世を彩る文物というところが、よい。晩年を『帝謚考』と『元号考』の執筆に費やした森鴎外がつくった歌詞だけのことはあります。

 

『帝謚考』と『元号考』、すなわち天皇と元号についての考察です。

 

 

 猪瀬直樹さんの『天皇の影法師』を読みました。本の帯には《「天皇」と「元号」の深層に迫るノンフィクション》とあります。猪瀬さんヴァージョンの『帝謚考』と『元号考』ともいえるでしょうか。

 深層に迫るためには、良質の「問い」が必要となります。猪瀬さんはどんな問いを用意したのか。まずはこれです。

 

 没年月日に「大正」という元号が用いられているが、鴎外の晩年の心境のなかに、この元号すら拒否しようとする、あるラディカルな思いが潜んでいた、と私はみている。鴎外が死の直前まで最後の情熱を傾けて取り組んでいた仕事は『元号考』であった。そのことと、遺言との間に通奏低音があるのは当然ではないのか。鴎外は「大正」という元号を拒否していたのではないかという疑問が、私にもうひとつの墓を思い出させたのである。

 

 しびれます。森鴎外の遺言と、元号考と、墓の側面に彫られた「大正十一年七月九日歿」から《鴎外は「大正」という元号を拒否していたのではないか》なんて、凡人には思いつきません。さらにこの疑問から、もうひとつの墓を思い出すんなんて。問いが問いを生む展開に、プロローグから早くも引き込まれます。研究授業だったら拍手喝采でしょう。導入からしてこの知的な盛り上がり。

 

 もうひとつの墓って、誰?

 

 その前に、以下は『天皇の影法師』の目次です。冒頭の遺書はプロローグから取ったもの。この遺書はいろいろなところで引用されていて、森鴎外が位階勲等に汲々とするような俗人ではなかったという証拠となっているそうです。

 

 プロローグ
 天皇崩御の朝に――スクープの顛末
 棺をかつぐ――八瀬童子の六百年
 元号に賭ける――鴎外の執着と増蔵の死
 恩赦のいたずら――最後のクーデター
 エピローグ

 中公文庫版のためのあとがき
 解説 網野善彦

 巻末特別対談
 今、ここにある皇室の危機 VS東浩紀

 

 巻末には東浩紀さんまで登場していて、お得すぎます。研究授業だったら、最後にもうひと山、みたいな。ちなみに東さんの名前の浩紀は、浩宮の「浩」と紀宮(黒田清子さん)の「紀」からつけられたそうで、まさに『天皇の影法師』です。

 

 閑話休題。

 

 戻ります。猪瀬さんが思い出したもうひとつの墓というのは、東京都立小平霊園にあるにある「杉山家之墓」のことです。ちなみに小平霊園は私の実家の近くにあります。徒歩15分。今度帰省するときに探すぞ(!)という話はさておき、名前も、そして没年月日も刻まれていないこの墓について、猪瀬さんは次のように書きます。

 

 私には「昭和五十二年五月二十四日」と記されるべき没年月日を、その被埋葬者が拒否しているように思えた。

 

 森鴎外は「大正」という元号を、そしてこの杉山家の墓に埋葬された誰かは「昭和」という元号を、それぞれ拒否していたのではないかという猪瀬さんの見立てです。そのように見立てた根拠はといえば?

 

 ノンフィクション『天皇の影法師』が動き始めます。

 

 うますぎるなぁ、猪瀬さん。ストーリーテリング、かくあるべし。繰り返しますが、しびれます。

 わずか6頁のプロローグで読者を惹きつけたかと思えば、続く「天皇崩御の朝に――スクープの顛末」で、ひとつの事件を切り口にして「天皇」と「元号」にアプローチしていくという展開。事件というのは、大正天皇崩御の2時間半後に流れた「新元号は光文」という世紀の誤報のこと。世紀の誤報を出したのは、当時最大の発行部数を誇っていた東京日日新聞(現在の毎日新聞)です。その誤報事件の渦中というか発信源にいたのが、東京日日新聞の記者であり、プロローグに「被埋葬者」として登場したバロン(男爵)杉山こと杉山孝治です。しつこいですが、しびれます。

 

 新元号の「光文」をスクープされた。だから「昭和」に切り替えた。

 

「火のない所に煙は立たぬ」と考えると、そういった神話ができるのも不思議ではありません。切り替えたのか、それとももともと昭和だったのか。真相は、どうなのでしょうか。ここでも問いが深い学びを促進していきます。

 関係者によれば《朝日、読売両紙に対する毎日新聞凋落の淵源をここらあたりまで遡らせる見方も、依然としてある》そうで、この誤報事件が東京日日新聞に与えたダメージの大きさを計り知ることができます。当然、結果として誤った情報を社に伝えたことになってしまった杉山孝治も大きなダメージを受けます。しばらく後に、若くして退職。後年、杉山孝治は長女夫婦に「あれは本当は正しかったんだが・・・・・・」と漏らしていたとのこと。しかし猪瀬さんは徹底した取材によって「あれは本当に正しくなかったんだ」ということを突き止めます。その過程で登場するのが森鴎外。すなわち「光文神話の真相」は、森鴎外の晩年の仕事の中に隠されていた、というわけです。晩年の仕事、すなわち『帝謚考』と『元号考』の探究です。

 

『帝謚考』が宮内省図書寮より刊行されたのは大正十年三月だが、鴎外はそれより一年近く前に、すでに次の作業である『元号考』の探究に向かっていた。
 鴎外は大正九年四月二十八日賀古鶴所宛書簡で、「明治」と「大正」の元号について否定的な見解を開陳するようになる。

 

 森鴎外は『元号考』の探究を続けるうちに、明治と大正という元号が過去に別の国でも使われていたことや、正の字をつけて滅びた国があることから、中国では正の字を元号に使うことは避けていたということなどを知ります。そして「不調べの至と存候」と怒りを露わにします。先生が子どもに言うように、資料を探してもっとちゃんと調べなさい、というわけです。

 では、なぜ森鴎外は元号にこだわったのか。東さんとの対談から、猪瀬さんの言葉を引きます。

 

鴎外は、明治国家が急ごしらえの「普請中」つまり建設中の国家だと世代的に知る立場にいた。だからこそ、元号という飾り、国家の形式を整えなければいけないと危機感をもっていました。

 

 学級づくりに似ています。担任は、急ごしらえの学級が崩れやすいことを知る立場にいるからこそ、学級の形式を整えなければいけないと危機感をもちます。元号に当たるのは、学級目標でしょうか。

 森鴎外は『元号考』の探究半ばにして亡くなり、未完の『元号考』は、漢学者で宮内省編修官であった吉田蔵増なる人物に託されます。未完の仕事を引き継ぐくらいだから、森鴎外に信頼されていたのでしょう。猪瀬さんは《『元号考』の作業は、新元号選定のための基礎データをつくることではなかったか。》として、この引き継ぎの意味を次のように推測します。

 

吉田に託した最も肝腎なこと、それは次代の元号を選定することではなかったか。

 

 ここに「昭和」への道が拓かれます。その後も紆余曲折を経ることになりますが、森鴎外と、その意志を引き継いだ吉田蔵増によって「昭和」という元号が誕生するというわけです。ちなみに吉田蔵増の提案した「昭和」は、『書経(堯典)』にある「百姓昭明、協和万邦」から「昭」と「和」を取り出したものです。森鴎外が生きていたら、この《ひとつの文脈から任意に二字を抽出するという作業》をどのように評価したでしょうか。

 まとめると、元号の選定は吉田蔵増がいた宮内省が長い年月をかけて進めていた。世紀の誤報を引き起こしてしまった杉山孝治は《宮内省とは別に内閣でも別に元号選定の作業が進められていた》というダミーの疑いが濃い国府案からの情報をつかんでしまった、あるいはつかまされてしまったというわけです。光文52年5月24日未明、杉山孝治、没。

 

鴎外が国家の形式的完成を託した吉田蔵増だが、昭和という元号を作成しその使命を終えたのち、国家の実質的崩壊の人身御供となったのはひとつの皮肉であった。

 

 その後、吉田蔵増は「米国及び英国に対する宣戦の詔書」の起草に関わるんですよね。国際法遵守に言及する言葉がなかったために、多くの悲劇を生むことになったその詔書には「昭に(あきらかに)」という言葉が使われています。猪瀬さん曰く《「昭に」という文字の使用に吉田の筆跡をみるのは、うがちすぎだろうか》云々。元号によって日本という国の形を整えようとした森鴎外の意志は、結局《国家の実質的崩壊》を避けることはできなかった。学級目標「だけ」では、学級崩壊を避けることはできない。無理矢理学校の話につなげれば、そういったことになります。

 

www.countryteacher.tokyo

 

 昨日は土曜授業でした。イヤだなぁと思いながら学校に行ったら、若手の有望株から「僕もどんどん人を呼ぶことにしました」と言われて気分が高揚しました。私が社会科や総合の授業などにゲスト(保護者、地域住民、等々)をたくさん呼んでいることに感化されたようです。嬉しいなぁ。

 

 結局、人。やっぱり、生き方。

 

 昨日から読み始めた『ミカドの肖像』もそうですが、猪瀬さんの本がしびれるのは、人に対する興味・関心が「徹底」しているからです。森鴎外然り、杉山孝治然り、吉田蔵増然り、そして菊地寛然りです。人に対する興味・関心の「徹底」の先に、天皇の影法師が見え隠れするこの作品。

 

「昭和」を提出した吉田蔵増の周辺をあたるしかない。近親者の探索にはかなり手間どったが、幸いに、吉田の三度目の妻弥江子が北九州市小倉に健在であった。慶應二年(一八六六年)生まれで、鬼籍に入ってから四十年以上たつ吉田の妻が六十九歳という若さであったことに戸惑った。 

 

 すごいなぁ。

 

 しびれます。

 

 

ミカドの肖像(小学館文庫)

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  • 作者:猪瀬 直樹
  • 発売日: 2005/03/08
  • メディア: 文庫
 
阿部一族・舞姫 (新潮文庫)

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