田舎教師ときどき都会教師

テーマは「初等教育、読書、映画、旅行」

角幡唯介 著『探検家の憂鬱』より。教員の憂鬱。無意識のどこかで身体性の回復を欲している。

そんな子供たちは集団登下校に象徴される「鳥かご」の中で優しく育てられたので、無意識下で自分が傷つくことを何よりも恐れるようになり、全他人を慮り全他人から慮れるような、生ぬるい倒錯した人間関係が真実なのだと錯覚するようになって、躊躇なく声高に、若干の権威性を帯びさせて絆という言葉を使ったり、いい若い男がまだ大学生のくせに衒いもなく家族が大事とか、私の世代なら恥ずかしくて言えなかったような優しいセリフを口にしたりするようになったが、そのくせネット上ではみんな匿名で常に人の悪口を言ったりもしている。
 私が生まれてからの三十六年の間に、世の中は異常に便利になり、そして実につまらなくなった。
(角幡唯介『探検家の憂鬱』文春文庫、2012)

 

 おはようございます。目下の憂鬱は明日に控えている土曜授業で、もっとの憂鬱は来月に控えている通知表の作成です。さらに、新型コロナウイルスの感染拡大を受けて、12月からは消毒作業を増やしましょうという話に「いつの間にか」なっていることも、結構な憂鬱です。

  

 

 感染予防を徹底したいのであれば、土曜授業を減らせばいいのに。全他人を慮り全他人から慮れるような、生ぬるい倒錯した意思決定をしている場合ではありません。残業を前提としたシステムであるにもかかわらず、躊躇なく声高に、若干の権威性を帯びさせて「子どもたちのために」なんて言われた日には、唐突ですが、否、必然ですが、富士山にでも登りたくなります。探検家の角幡唯介さん、冒頭の引用に続く結論として曰く、

 

それが富士登山が隆盛を迎えている、根っこの理由なのだ。

 

 

 角幡唯介さんの『探検家の憂鬱』を読みました。表題作の「探検家の憂鬱」に始まり、あとがきを挟んで「極地探検家の下半身事情」で終わる、著者初のエッセイ集です。各エッセイの間には、角幡さんのブログ記事が挿入されていて、文庫版には、文庫版あとがきに代えて「イスラム国事件について思うこと」が掲載されてされてます。目次は、以下。


 探検家の憂鬱
 スパイでもなく革命家でもなくて探検家になったわけ
 行為と表現 ―― 実は冒険がノンフィクションに適さない理由
 震災――存在しなかった記憶
 雪崩に遭うということ
 富士山登頂記
 北極点、幻の場所 
 グッバイ・バルーン

 あとがき

 極地探検家の下半身事情

 イスラム国事件に対して思うこと――文庫版あとがきに代えて

 

 冒頭の引用は「富士山登頂記」からとったものです。共感するところが多く、赤線とドッグイヤーがいっぱいに。なぜこんなにも多くの日本人が富士山に登るようになったのか。なぜこんなにも多くの日本人が皇居の周りを走るようになったのか。そういった問いについて書かれたエッセイです。これはそのまま、探検家の角幡さんがよく訊ねられるという、なぜチベットの峡谷地帯なんかに行くんですか、なぜ北極を100日間も歩いたりするんですか、ひっくるめてなぜ冒険なんてするんですか、という問いに重なります。

 

 なぜなら、病気だから。

 

 私は自分がある種の病気であると思っている。そして申し訳ないが、あなたもある種の病気だと思っている。

 

 角幡さんに言わせれば、富士山に登ったり皇居の周りを走ったり、バックパッカーになったり探検家になったりするのは、あなたも私も病気だから。異常に便利になり、つまらなくなった世の中で、あなたも私も病気になってしまったから、となります。なるほど、私も病気だったのか。病気が軽い人は富士山に登ったり皇居の周りを走ったりし、病気が重い人はチベットや北極くんだりまで出かけていったりするというわけです。

 

 角幡さんは、重病。

 

 植村直己さんも星野道夫さんも、重病。グッバイ・バルーンに出てくる、熱気球のパイオニアである神田道夫さんも、重病。探検家が憂鬱になるのも無理はありません。角幡さん以外の3人は、病気が遠因となり、命を落としてしまいます。

 

 では、病名は?

 

 ここでいう病気とは《身体性が喪失してしまった現象》を指します。特に都市生活者についていえば、自然から切り離され、身体よりも圧倒的に頭を使うようになってしまったということを指します。彼ら彼女らが富士山に登るのも皇居の周りを走るのも、角幡さん曰く《無意識のどこかで身体性の回復を欲しているからなのではないだろうか》というわけです。

 

 冒険の現場で常々思うのは、身体とは生感覚そのものを生み出す器官の総体に他ならないということである。

 

 だから富士山に登るなどして身体と自然をダイレクトにつなげたくなる。皇居の周りを走りたくなる。身体性の回復とはすなわち「生きている感覚」を取り戻すこと。かつてなんちゃってバックパッカーだった私も「生きている感覚」を求めて旅をしていたように思います。

 

 じゃぁ、今は死んでるんですか?

 

 かつて同僚にそう訊ねられたことがあります。答えに窮しましたが、いま考えると「死につつある」が正解でしょうか。月火水木金土と、寝ても覚めても頭の中で授業のことを考えていて、今も考えていて、身体なんて全く使っていないですからね。身体性が失われてしまって、生きている感覚が薄れてしまうのも当然です。

 

 土曜授業なんてしている場合では、ない。

 

 子どもも大人も、富士山にでも登った方が、いい。それから、頭ばかり使って死につつある担任と、鳥かごの中の子どもという組み合わせは、よくない。鳥かごの中には自然がありませんから。都市部に関しては、子どもたちも身体性を失っています。学校教育が頭でっかちになるのも宜なるかな。冒頭の引用は言い得て妙です。

 

 教員の憂鬱。

 

 最後にもうひとつ。生きている感覚という意味では、植村直己さんと野坂昭如さんの対談話から入る「極地探検家の下半身事情」も奮っています。

 

 植村氏が北極での旅がいかに過酷で厳しいか、例の冒険家らしい朴訥とした口調で語っていたところ、野坂氏が痺れを切らしたのか、あるいはそもそもその手の冒険譚には興味がまったくなかったのか、それとは全然関係ない質問を浴びせ、周囲を唖然とさせたという。
「ところで植村さん、北極ではオナニーはどうしているんですか」
 唐突な展開に植村氏は絶句した。

 

 唐突な展開に私も絶句しました。みなさんも絶句しているのではないでしょうか。青春を山に賭けた植村直己さんも絶句したそうで、黙して語らずという態度を貫いたとのこと。さすがは地球冒険62万キロの男です。

 そんな植村直己さんに代わって、角幡さんは《冒険家はどうしても一般的に聖人君主的というか、天真爛漫で孤高、基本的に硬派、夢に向かってまっすぐにつき進み、性欲とは無縁の純情な人間というイメージをもたれがちだ》と書いた上で、極地探検家の下半身事情を暴露します。生の感覚とは性の感覚でもあることから、これもおそらく身体性の話です。野坂さんが知りたかったのも、頭ではなく身体のリアルのこと。興味のある方は、以下のブログで紹介した本と合わせて、是非。

 

www.countryteacher.tokyo

 

 ブログも、使っているのは身体ではなく頭だなぁ。

 

 行ってきます。

 

 

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