ところが2017年におこなった探検がきっかけとなって私の物の見方は大きく変わってしまい、結果、現実とはカオスであること、そしてこれを直視しないためにわれわれは未来予期にすがって生きているのだ、と認識するようになったのである。というのもその二度の探検の最中に、それまで無意識にかけていた未来予期のフィルターが取り払われ、混沌として現実に放り出された瞬間が幾度かあったからである。
(角幡唯介『狩りの思考法』アサヒグループホールディングス、2021)
こんにちは。日々の授業に加えて修学旅行と展覧会と市の駅伝大会と卒業アルバムと卒業文集と2学期の通知表とその他もろもろ押し寄せてきて、6年生のこの時期は結構なカオスです。しかも本年度は校内唯一の単学級、39人。登山や探検でいうところの単独行ゆえ、見通しをもち、未来予期にすがって生きざるを得ません。客死ならまだしも、過労死なんてまっぴらご免です。16時45分(定時)目指して1秒も無駄にすることなく計画的に仕事を片付けていく毎日。しかしそうすると、永遠と続くタスクリストをこなしている感覚に陥り、
生活がつまらなくなる。
角幡唯介さんの新刊『狩りの思考法』を読みました。未来予期優先で生が営まれると、生活がつまらなくなる。漂泊し、狩猟することで「世界」がやってくる。郡司ペギオ幸夫さんの『やってくる』と、宮台真司さんの『「世界」はそもそもデタラメである』を連想する一冊でした。大満足φ(..) pic.twitter.com/LTH8n5CK3a
— CountryTeacher (@HereticsStar) November 10, 2021
何が「やってくる」かわからないデタラメな現実ではなく、未来予期にすがって生きるようになったのは、冒頭の引用でいうところの《フィルター》の精度が上がったからでしょう。昔々、初めて6年生を担任したときには未来をうまく予期することができず、だからカオスを直視せざるを得ず、生活がつまらないというような虚無に陥ることはありませんでした。
では、年齢とともに経験を重ね、生活がつまらなくなったらどうするか。極地探検家として知られる角幡唯介さんの「狩りの思考法」に答えを求めれば、こうなります。
漂泊する。
角幡唯介さんの『狩りの思考法』を読みました。角幡さんがシオラパルクの人々の生き方(イヌイット社会の生の様式)をもとに、簡単にいえば「太く生きるためにはどうすればいいのか」をハードボイルドに哲学している一冊です。ちなみにシオラパルクというのはグリーンランドの最北端にある世界の終わり的な狩猟民の集落のこと。名著『極夜行』にも登場することから、角幡ファンにとっては遠くて近いワンダーランドといえるでしょうか。
目次は以下。
コロナ以降と未来予期
死が傍らにある村
ナルホイヤの思想
計画と漂泊
モラルとしてのナルホイヤ
偶然と調和
死んだ動物の眼
ナルホイヤの思想。そして、モラルとしてのナルホイヤ。気になります。ナルホイヤって、何だ?
ナルホイヤとは〈わからない〉という意味の言葉である。
角幡さんが言うには、このわからないという意味の「ナルホイヤ」をシオラパルクの人々は連発するとのこと。それから〈たぶん〉という意味の「アンマカ」という言葉もよく口にするとのこと。そしてそのことこそが、狩猟民であるシオラバルクの人々と、私たち文明生活者との違いを決定的にしているとのこと。冒頭の引用につなげれば、シオラパルクの人々は未来予期をしない生き方、私たちは未来予期にすがる生き方をしているということになります。ポイントは、シオラパルクの人々がその生き方を積極的に選んでいるのに対して、私たちは平安を求めるあまり、未来予期にすがるという生き方を受動的に選択してしまっているということ。「すがる」という言い回しに、角幡さんの「そこに疑問をもたなくていいのか?」というメッセージが込められているような気がします。
私に言わせれば、彼らはむしろ、未来を計画的に見通してはいけない、というふうに考えているのではないかと思わせる。ナルホイヤとは諦念という受動的なものではなく、未来を計画してはならず、現在のなかに生きなければならない、ナルホイヤでなければならぬ、との積極的道徳哲学なのであり、それが彼ら独特の誇りにつながり、自負の源泉ともなっているように思える。
ナルホイヤでなければならぬ。
目次にある「コロナ以降と未来予期」でいえば、ビフォアー・コロナよりも何が起こるかわからないコロナ以降の方がナルホイヤです。学校教育でいえば、理科の教科書に書かれた実験結果をなぞるような授業よりも、教科書には載っていない実験結果に教師も子どももアッと驚く授業の方がナルホイヤです。制御工学的にいえば、フィードフォワード・コントロール(事前制御)よりも、対象の変化に応じて制御を変えていくフィードバック・コントロール(事後制御)の方がナルホイヤです。もっと根源的に言えば、農耕民族よりも狩猟民族の方がナルホイヤです。つまりは、太く生きるためには計画よりも漂泊が大事になってくるということ。
定住漂泊 by 金子兜太 φ(..)
同様のことを社会学者の宮台真司さんや科学者の郡司ペギオ幸夫さんが著書に書いています。以下、『限界の思考』(宮台真司、北田暁大)と『やってくる』(郡司ペギオ幸夫)より。
宮台さん曰く、
僕は80年代なかばから、机上の研究生活に飽きてフィールドワークをはじめた。ヤクザからお巡りさんまでいろんな人と付きあい、何回か危ない橋を渡りながら思ったことは、<社会>のなかに身を置くような作法は自分にすこしも力を与えてくれないということでした。<世界>(の根源的未規定性)との接触なくして、自分はすこしも前に進めないという感覚。
郡司さん曰く、
つまり、リアリティに欠かせないものとは具体的な要素ではなく、いつこの空間に参与するかわからない空間外部の潜在性なのです。窓を見ると、上空を旋回する鳩の群れが視界に一瞬飛び込んでくるかもしれず、遠くから猫の声が飛び込んでくるかもしれない。これらの到来を待つ構えこそが、リアリティを感じる私を作り出していたのです。
だからリアリティ喪失の直前とは、外部からの到来を待つ構えの喪失であり、外部が遮断される感覚なのです。
宮台さんのいう〈世界〉や、郡司さんのいう「外部」を遮断してしまうのが未来予期です。過度の未来予期は〈世界〉も「外部」も遠ざけてしまうということ。モラルとしてのナルホイヤに反するということ。受験という未来を過度に予期するあまり、学校生活というイマココを楽しむことができなくなっている一部の受験生たちにも届けたいモラルです。
未来を計画しすぎてはならず。
もしもセロ弾きのゴーシュが外部から「やってくる」動物たちを拒んでいたとしたら、計画的に練習することはできたとしても、その練習はゴーシュにすこしも力を与えてくれなかったでしょう。つまりはそういうことです。
生活がつまらなくなって、鏡に映る自分が死んだ動物のような眼をしていたら、採用試験を受け直して別の県に行く。或いは異動する。そうすれば生は躍動する。狩りの思考法を教員に当てはめれば、そうなります。アンマカ。
狩りの思考法、めっちゃお勧めです。
アンマカ。