田舎教師ときどき都会教師

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角幡唯介 著『探検家とペネロペちゃん』より。子どもは、極夜より面白い。親になろう、教員になろう。

 子供が生まれて、子供が様々な何かをなしとげるときに感じる喜びは、親になってみなければわからない完全に新しい経験である。未知なる世界である。子供ができる前、私は、自分がこんなにも子供のことを考えて生きていくことになるとは思わなかった。若かった頃の私が今の私を見たら、きっとなんて軟弱な大人になったものか、と幻滅するだろう。しかし実際に父親になってみると、こんなに愉快で面白いことはないとつくづく思う。人間、四十年も生きているといい加減、今までの自分に少し飽きてくる。その意味からも、子供ができて自分が変わることは面白い。親になると自分の人生は新しいフェーズに入り、人生はVer.2.0に突入する。
(角幡唯介『探検家とペネロペちゃん』幻冬舎文庫、2021)

 

 こんばんは。3学期という最後のフェーズに入り、6年生は卒業に向けたあれこれで大わらわです。

 

 卒業文集もそのひとつ。

 

 冬期休業中に子どもたちの卒業文集(下書き)に目を通し、朱を入れました。長い付き合いだからでしょうか。いやが上にも「らしさ」を感じます。

 

 鈴と、小鳥と、それから私。

 

 地べたを速く走れる子もいれば、そうでない子もいます。ハンドベルできれいな音を出せる子もいれば、そうでない子もいます。いずれにせよ、

 

 全員、しあわせになってほしい。

 

 優劣の彼方で、誰もがしあわせになれる社会になってほしい。担任になってみなければわからない感覚かもしれませんが、心からそう思います。

 

 男性  約29%。
 女性  約19%。

 

 2035年の生涯未婚率の推計です(Wikipediaより)。この推計が当たってしまうと、クラスの男の子の約3人に1人が、女の子の約5人に1人が、人生をVer.1.0のまま終えてしまうことになります。結婚しない、或いは親にならないという選択肢があってももちろんOKですが、正直、ちょっと寂しい。結婚できるのであれば、親になれるのであれば、誰もが子育てを経験できる社会にシフトチェンジしていくのであれば、角幡唯介さんいうところの《未知なる世界》を子どもたちにも経験してほしい。そして面白がってほしい。だって子どもは、

 

 極夜より面白いのだから。

 

 

 角幡唯介さんの『探検家とペネロペちゃん』を読みました。稀代の探検家が綴った育児本で、本の帯には《子どもは、極夜より面白い》とあります。代表作『極夜行』の面白さに打ちのめされた経験のある身としては、そして同じパパとしては、ペネロペちゃんというふざけた名前に抵抗を覚えつつも、一読せざるを得ませんでした。

 

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 子どもは、極夜より面白い。

 

 だから教員になろう。年々倍率が下がり続けている教員採用試験の誘い文句にどうでしょうか(?)という話はさておき、探検家にとっての「極夜」というのは、前澤友作さんにとっての「宇宙」のようなもので、それよりも面白いというのだから、

 

 眉唾です。

 

 眉唾でしたが、本当でした。読めばわかります。数ページ読んだだけでもわかります。子育て、恐るべし。否、恐るべし、角幡唯介。解説を書いている武田砂鉄さんも指摘していますが、子育てが面白いとか、極夜が面白いとか、そういう次元ではなく、

 

角幡が書く文章だから面白いのだ。

 

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「ユウスケは子育ては全然してくれなかったけど、家にいて話をしてくれるだけで今よりよかった。当たり前だけどママ友はみんな旦那さんがサラリーマンで、毎日家に帰ってきて週末は遊びに行って、楽しそうだなって思う。ユウスケは今、楽しいの?」
「別に楽しくなんかないよ」私は嘘をついた。滅茶苦茶楽しかったのだ。

 

 1歳3ヶ月のペネロペちゃんを日本に残し、ひとりグリーンランドへと旅立っていった角幡さんと、ペネロペ・母こと里子さんとの会話(電話)です。私も男だからでしょうか。嘘をついたときの角幡さんの表情がありありと思い浮かんで、滅茶苦茶うけました。我が子をペネロペ・クルスに例えるくらいに絶賛しているのに、そして子育ては極夜より面白いと書いているのに、パートナーには《ユウスケは子育ては全然してくれなかったけど》と思われているところ、リアルです。

 

 リアリティ・バイツ。

 

 ところが三歳半になった頃、ペネロペはこのボードを登れなくなった。本来これはおかしな話で、二歳より三歳半のほうが手足が長くなってそれまで届かなかったホールドに手足をかけられるようになるし、筋力も発達するので、より登れるようになるはずである。でも現実として登れなくなったのだ。
 なぜ登れなくなったのか。その理由は明白だった。

 

 これまたリアルで面白い。小学校でもよくある話です。学年が上がるほど挙手をしなくなるのがその典型。理由は明白です。想像力が働くようになるからです。間違えるのが怖くなるということ。ペネロペちゃんも同じです。想像力が働くようになり、怪我をするのが怖くなった。怖じ気づいた我が子を目にしたときの父親の反応もリアルです。

 

あれほど自由奔放、天真爛漫で将来はカトリーヌ・デスティベルのようになるのではないかと期待というか心配していたのに、突然、覇気に欠けた子供になってしまったように見えて、私は正直ショックを受けた。

 

 わかるなぁ。カトリーヌ・デスティベルのことはよく知りませんが、我が子に期待する親の感情や、期待通りにいかなかったときの親の感情の揺れについては、同業(=父親)としてよく知っています。ぬぐいがたい罪深き衝動のこともよく知っています。

 

 とはいえ、それがわかっていても親には子供にイメージ通りに育ってもらいたいとい罪深き衝動がぬぐいがたくあり、それを欲してしまう。
「ゴリラの研究者にはならない」といわれたとき、私は反射的に訊き返した。
「ゴリラが嫌いなら、何の動物が好きなんだよ」
「あおちゃんはね、ゾウとウサギが好きなの」
 その答えを聞いたとき、私はゾウならいいかもしれないと思った。

 

 あおちゃん=ペネロペちゃん。ちなみにウサギはNGのようです。角幡さん曰く《ウサギはダメだ。ウサギは食うもんで研究するもんじゃない》とのこと。さすが探検家です。

 

 いちいち面白い。

 

 そしてこの面白さがどこから生じているのかといえば、それはペネロペちゃんのことを研究対象として記述しているからなのだろうなと思いました。角幡さんが冷静と情熱のあいだを行ったり来たりすることができるのも、ペネロペちゃんが研究対象ゆえのこと。その対象が極夜であれ雪男であれ空白の五マイルであれ、そしてペネロペちゃんであれ、ひとたび角幡さんの手にかかれば、ユーモアと妙なシリアスさと矢の如くストレートな好奇心が絶妙のハーモニーを奏でる読み物に生まれ変わるというわけです。母親とは違った子育てのアプローチ。その違いがペネロペちゃんによい影響を与えているに違いないって、勝手に想像します。

 

 恐るべし、角幡唯介。

 

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 クラスの子どもたちを研究対象としてとらえ、面白がること。高校生の長女と中学生の次女も研究対象としてとらえ、面白がること。教師のコントロール欲求は手放すこと。親の期待も手放すこと。人生をVer.3.0にアップデートすべく、

 

 今年の目標にします。

 

 おやすみなさい。

 

 

極夜行前

極夜行前

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