田舎教師ときどき都会教師

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角幡唯介 著『狩りと漂泊』より。極地探検家の目下の生き方。漂泊が、すべてを生み出すのだ。

 このようなわけだから、計画にもとづいて効率性を優先するかぎり、どうしても人は、そのとき起きた予想外の出来事や、その土地ならではの生の風景を見ようとしなくなる。もちろん実際に風景を見てはいるのだが、それは単に網膜に像が映っているだけ、という話で、見えている風景にはなんの意味もないので、見ていないのと同じだ。外の世界への志向性はうしなわれ、土地は私となんの関わりもないものとして、ただ、そこにあるだけとなる。
 ところが狩猟者の視点で行動すると、こうした事情は一変する。到達主義的視点は捨象されてしまっていた風景が突如、意味あるものとして復活し、たちあがってくるからだ。
(角幡唯介『狩りと漂泊』集英社、2022)

 

 こんにちは。先週は指導案を要する公開授業が立て続けにあって大変でした。おまけに土曜授業までありました。振休はなく、リラックスできるのは今日だけなのに、持ち帰り仕事というおまけもどっさりで、本当にハードです。もちろん、グリーンランド北極圏を一人と一匹で75日も漂泊する大変さとは比べれば、それこそ《なんの意味もない》大変さですが。それにしても、司法によって授業準備の時間は一コマ5分と算段されているのに、なぜプライベートを犠牲にしてまで指導案なんて書かなければいけないのでしょうか。指導案に基づいて「導入・展開・まとめ」を優先するかぎり、どうしても教員は、そのとき起きた予想外の出来事や、その授業ならではの生の子どもたちの姿を見ようとしなくなります。授業のおもしろさは、教育のおもしろさは、子どものおもしろさは、外の世界への志向性、東浩紀さんの言葉を借りれば「郵便的な誤配」にこそあるのに。司法が「一コマ5分」というのも、もしかしたら私たち教員に残業なんてやめて《狩猟者の視点》で授業をせよと促しているからかもしれません。5分の授業準備では《到達主義的視点》をもつことはできませんから。

 

 教員よ、漂泊せよ。

 

 

 角幡唯介さんの『狩りと漂泊』を読みました。極地探検家である角幡さんが、グリーンランド北極圏の旅を通して「狩りと漂泊」について徹底的に考察した一冊です。生き方について書かれた一冊でもあります。目次は以下。

 

 四十三歳の落とし穴
 裸の山
 狩りを前提とした旅
 いい土地の発見
 見えない一線
 最後の獲物
 新しい旅のはじまり

 

移動と狩猟にこそ人間性の始原がある、と私は思っている。

 

 初心忘るべからず。人間性の始原は「移動と狩猟」にこそあるのに、現代人はそれを忘れていませんかという「問いかけ」が『狩りと漂泊』を価値付けます。『極夜行』や『空白の五マイル』なのこれまでの作品と同様に、単なる探検記ではないということ。

 

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 地図なし登山が空間における位置情報を見えなくすることで未来を不確定状態のまま温存する行為だとすれば、狩猟は食という生存手段を、今目の前にあらわれた獲物というその瞬間の偶然性にゆだねることで未来予期を不可能にする行為である。

 

 ポイントは「未来予期」です。これが可能であればあるほど漂泊的な生き方からは遠ざかり、これが不可能であればあるほど漂泊的な生き方に近づきます。漂泊的な生き方のよさといえば、

 

 それは「今を生きる」ことができるということ。

 

 地図を見ながら山に登ったり、カーナビを使って運転したりすると、到達主義的視点にとらわれてしまって、つまり未来が起点となってしまって、純粋に今と向き合うことができなくなってしまいます。逆に、地図を捨ててしまえば、カーナビを使わなければ、そこに郵便的誤配が入り込む余地が生まれて、今を起点とした未来を描くことができます。今とどう向き合うかが未来をかたちづくることになるからです。イギリスの文化人類学者ティム・インゴルドいうところの「運動を奪われたラインは連想を閉じ、一面的」であるのに対して「運動を伴ったラインは連想を開き、多面的」であるという話と同じです。ここでいう運動とは誤配のこと。もちろん前者が地図・カーナビ有りで、後者が地図・カーナビなしです。角幡さんは、未来予期を不可能にすべく、地図を持たずに北海道の日高山脈をさまよったり、十分な食糧を持たずにグリーンランド北極圏をさまよったりして、偶発的に会うものを取り込みながら「ライン」を描くという生き方にチャレンジします。

 

 そして、悟りを開く。

 

 やがて私はフンボルト氷河の内湾にはじめて足を踏み入れる。そしてそこでたくさんの海豹を見ることになる。
 それが私の世界観を、もっといえば生き方そのものを変えた。

 

 どう変わったのかといえば、それは読んでみてからのお楽しみです。ちなみに読み進めていく中で、同じことを別の語り口で表現しているなと思った小説が2つ。辻仁成さんの『目下の恋人』と、村上龍さんの『歌うクジラ』です。

 

 一瞬が永遠になるものが恋、永遠が一瞬になるものが愛。

 

 これは『目下の恋人』に出てくる印象的な台詞です。目下とは「今この瞬間」のこと。だから角幡さんいうところの「漂泊」は「恋」に近いでしょう。愛を誓って結婚というゴールに向かってしまうと、それは到達主義的視点にとらわれる結果になりかねないからです。

 

 そして、移動しなければ出会いはない。移動が、すべてを生み出すのだ。

 

 これは『歌うクジラ』に出てくるメッセージです。漂泊しなければ出会いはない。漂泊が、すべてを生み出すのだ。そう読み換えても違和感はありません。グリーンランド北極圏でいえば、出会いというのは、狩りでいうところの獲物のこと。

 

たぶん狼たちは定石にのっとり、よぼよぼで動きののろい爺さん牛を襲ったのはいいが、食ってみると尋常ではない加齢臭にたじろぎ、私と同じように「うげえっ! こんな臭えもん、食えるかあっ!」とほとんど食いのこしたまま、たちさったにちがいない。

 

 ユーモアを忘れない表現術は『狩りと漂泊』でも健在です。

 

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 最後に、思い出した本をもう一冊。

 

 沢木耕太郎さんの『旅のつばくろ』に、面として知っている土地をいくつくらいもっているか。そのことは《人生の豊かさということに直結しているような気がする》と書かれています。角幡さんの開いた悟りは、漂泊の先輩たる沢木さんの気付きと似ているんですよね。って、ヒントを書いてしまっていますが、そんな二人の対談が読める本はこちら。

 

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 10月も半ばとなり、「次年度、異動する or しない」を決めなければいけないシーズンになりました。現任校は4年目です。長くいればいるほど、慣れてしまって、そして未来予期ができるために「今を生きる」ことができなくなってしまって、時間の流れが速くなっていきます。

 

 また、漂泊しようかな。

 

 定住漂泊。

 

 惑う。