沢木 しようがないことなんですよ。それは当たり前のことで、相手があることで、相手の持っているエネルギーによって、出来、不出来に差が出てくるのは当たり前じゃないかと。ところが書き手にとっては、そうかんたんにわりきれない。だって、自分という存在がありながら自分が書いたものに対して全能な力を持てないわけでしょう。そこは仕方ないんだということは十分承知のうえでも、自分のエネルギーならエネルギー、熱量なら熱量の多寡がその世界を支配できないということのいら立ちが、たぶんですよ、そこは先ほどのアメリカの話に戻れば、アメリカのノンフィクションの書き手のいら立ちでもあっただろうと思うんです。そのために相手の熱量によって決定されない方法、こちらの熱量によって作品のある質を保証する方法はないだろうか、というふうに思ったんじゃないかという気がするんです。
(沢木耕太郎『星をつなぐために』岩波書店、2020)
こんにちは。星をつなぐというタイトルも、引用した内容も、似ていますよね、学級担任と。ノンフィクションの書き手は事実と事実をつないで作品をつくり、学級担任は児童と児童をつないでクラスをつくります。
星でいえば、星座。
星座の描き方、すなわち方法に対する構えも似ています。ノンフィクションの書き手が方法にこだわるように、学級担任も授業や学級づくりの方法にこだわります。そのこだわりは、両者ともに「いら立ち」から生じているもの。そんなふうに感じるのは、EQやIQ、家庭環境などの児童の実態にかかわらず、こちらの熱量によって授業や学級の質をある程度まで保証する方法はないだろうか、というふうに多くの学級担任は思っているんじゃないかという気がするからです。いら立ちという表現が適切かどうかはわかりませんが、少なくともわたしはそうです。だから沢木耕太郎さんの「たぶん」に同意します。
たぶん、方法は力なのだ。
沢木耕太郎さんの『星をつなぐために』を読みました。ジャズでいうところのインプロのようなトーク・セッションを集めたシリーズものの最終巻です。セッションズ Ⅰ の『達人、かく語りき』は「あう」ということ、セッションズ Ⅱ の『青春の言葉たち』は「きく」ということ、セッションズ Ⅲ の『陶酔と覚醒』は「みる」ということ、そしてこのセッションズ Ⅳ の『星をつなぐために』では「かく」ということが、特にノンフィクションを「かく」ときの方法論が、各セッションの中心的な話題となっています。
あう
きく
みる
かく ← イマココ
以下は対談相手とタイトルです。個人的には「あっ、猪瀬直樹さんともセッションをしている!」って震えました。同年代なんですね、二人は。知りませんでした。教員になる前に旅に夢中になったのは、バックパッカーのバイブルと呼ばれる沢木さんの『深夜特急』を読んだから。Twitter のアカウントをつくったのは、東北の震災時に気仙沼公民館に取り残された446人を Twitter がきっかけとなって救出したという、猪瀬さんの新聞記事を読んだから。その緊迫と奇跡の救出劇を描いた猪瀬さんの『救出』はとってもお勧め。そう考えると、ノンフィクションの作品が読者の人生に与える影響って大きいなぁと思います。傾向として、頻度として、質は違えど、フィクションのそれよりも間違いなくでっかい。
柳田邦男「ノンフィクションの可能性」
篠田一士「事実と無名性」
猪瀬直樹「アマチュア往来」
柳田邦男「書くことが生きることになるとき」
辻井喬「フィクションとノンフィクションの分水嶺」
村山由佳「砂の声、水の音」
瀬戸内寂聴「それを信じて」
角幡唯介「歩き、読み、書く ―― ノンフィクションの地平」
後藤正治「鋭角と鈍角」
梯久美子「奪っても、なお」
その猪瀬直樹さんとのセッション「アマチュア往来」では、タイトルにもなっているアマチュアという言葉が印象に残りました。猪瀬さんの《なにごとも発見にはアマチュア的発想が大事なんだものね》に対して、いくつかの会話を交わした後に、沢木さんは次のように述べます。
沢木 僕の場合にはアマチュアのルポライターとして出発して、アマチュアの物書きとしてずっとありつづけたと思うのね。もちろんノンフィクションを十何年も書いているから、その意味では職業的に習熟している部分もあるけど、一回一回のテーマに関してはつねに、だれでもそうだと言えばそうだけど、アマチュア的な態度で生きてきたと思うんです。よその世界に闖入して、また出て行く。その繰り返しでしかないけど、僕自身はその往復だけで完全に充足している。
学級担任に置き換えれば、一回一回の学級に関して、或いは一回一回の学校(自治体)に関して、アマチュア的な態度で生きていくということが「発見」につながるということになるでしょうか。初任者や異動してきたばかりの先生たちがもつ「違和感(すなわち発見)」を大事にするということであったり、同じ学校に、特に初任校に長く留まりすぎると発見が遠ざかっていくということであったり、そういった気付きも、この場合は本を通して「よその世界に闖入して、また出て行く」ことで得られます。言い方を換えると、常に新鮮な気持ちで対峙するということ。そのためにも「方法」って大事だなぁと感じたのが、角幡唯介さんとのセッション「歩き、読み、書く ―― ノンフィクションの地平」です。
沢木 でも、『深夜特急』は、僕の書いているノンフィクションの中では、ちょっとタイプが違うんじゃないかと思っています。『凍』の少し前、といっても十年ぐらい前に、『檀』を書きました。そのときの僕の主要なテーマは、「深さ」なんです。関心の多くは人間の内面に向かっていました。人間の内面をノンフィクションでどこまで深く書けるだろうか、というところで『檀』を書き、そして今度は、三人称で一人称の深みを書けないかと『凍』に向かっていきました。
学校でいうところの「深い学び」を連想させる、深さ。沢木さんは一回一回のテーマに対して少しずつ方法を変えることで、アマチュア的な態度を守っています。方法を変えれば、対象に対して常に新鮮さを保つことができる。そして方法を変えることが「発見」や「充足」につながる。ノンフィクションではなくフィクションにも挑戦するようになった沢木さんの生き方に学べ、ということ。結局、人。やっぱり、生き方。
方法は力なのだ。
角幡さんも《やっぱり一皮むけたいんです。でも同じやり方では同じものしか書けない。もう先が見えないことをやるしかない》と述べています。担任もそうありたいものです。過去の成功体験にとらわれずに、方法を変え、実験を続ける。そうすれば、マンネリ化も防げますから。マンネリ化は担任から熱量を奪って思考停止を促します。いわゆる「学校スタンダード」にも、「隣のクラスとそろえる」にも、そういった危険性があります。本来であれば、そろえるべきは実験精神というか、それを生み出す熱量と、熱量を奪わない労働環境、及び熱量をもとにした多様性であるべきなのに。
角幡さんとのセッションの最後に、沢木さんが《で、それは人の話を聞くことであり、広い意味で旅をすることでもあった》と口にします。コロナ禍で外に出ることもままならない夏休みですが、セッションズ Ⅳ を読むことで、深夜特急とは違った旅をすることができたなぁと、沢木ファンとしてはそんなふうに思いました。
残暑が続きます。
最後に、怪談ではないですが、角幡さんの『雪男は向こうからやって来た』をお勧めします。以前に保護者から勧められて読んだ本です。セッションズ Ⅳ を読んで思い出しました。
雪男は向こうからやって来たゾッ。
寒っ。