田舎教師ときどき都会教師

テーマは「初等教育、読書、旅行、映画」

角幡唯介 著『そこにある山』より。カーナビに頼ると、大人は道を覚えない。担任に頼ると、子どもは他者と関われない。

 目的地に到達することだけを優先し、到達するまでのプロセスは無意味であると切りすてたとき、人は自分では気づかない重要な何かをうしなっている。便利であるということは、言いかえれば、目的を達成するまでの労力を省くということである。この省かれた労力とは、要するに時間と空間に自分自身が関わるプロセスそのものである。
(角幡唯介『そこにある山 結婚と冒険について』中央公論新社、2020)

 

 こんばんは。結婚と冒険の前に、学力について。財務省によると、学力への影響について「学級規模の縮小の効果はないか、あっても小さいことを示している研究が多い」とのことですが、丁寧に教えてもらえる小規模校の子どもたちの学力が、そうでない子どもたちとほとんど変わらないのはなぜでしょうか。少人数学級にすれば、個に応じた指導を充実させることができます。聖徳太子よろしく10人の子どもたちの話を同時に聞き、それぞれに対して別々の指示を与えることもできるかもしれ……、いや無理だな。それはさておき、車に例えれば、学級規模を縮小することによって、子どもたち一人ひとりに高性能のGPSを搭載したカーナビをプレゼントすることができるのに。それなのに、

 

 なぜ?

 

そこにある山-結婚と冒険について (単行本)

そこにある山-結婚と冒険について (単行本)

  • 作者:角幡 唯介
  • 発売日: 2020/10/20
  • メディア: 単行本
 

 

 角幡唯介さんの『そこにある山』を読みました。副題は「結婚と冒険について」です。作家、探検家、極地旅行家の肩書きをもつ角幡さんのことは、以前、保護者に『雪男は向こうからやって来た』を勧められて知りました。忙しいのになんで雪男の話なんて読まないといけないんだと思いつつ、勧められると「せっかくだし」と思って読んでしまうアホな性格を呪いつつ、読んでみるとこれがまたゾッとするくらいおもしろくて、みなさんも、ぜひ。沢木耕太郎さんとのセッション(対談)もおもしろいので、ぜひ。やって来たつながりで、郡司ペギオ幸夫さんの『やってくる』も、ぜひ。

 

www.countryteacher.tokyo

 

 話が逸れました。その角幡さんがよく訊かれたというのが「どうして冒険などしているのですか?」という問いです。しかし最近は、この質問はあまりされなくなり、そのかわりとみに増えてきたというのが「なぜ結婚したのですか?」という問いだそうです。結婚し、パパになった角幡さん。一般的にいって、冒険と結婚は水と油のように思えるのに、

 

 なぜ結婚したのですか?

 

 子どもを授かったからです。というのは私の「事態」です。当時勤務していた小学校の校舎には「やればできる」というスローガンが掲げられていて、まさに「事態」。しかも性教育の指定校。話がまた逸れました。戻します。角幡さん曰く《私の理解では結婚とは選択ではなく事態である》云々。自然を相手にしてきた探検家らしいとらえ方だなぁと思います。

 

 私がこの質問に違和感をおぼえるのは、この質問をする人の全員、もう百人中百人が結婚について誤ったとらえ方をしているからである。どういうことかというと、どうして結婚したのか、と訊くということは、結婚しなかった場合もありえた、ということを前提にしているわけだ。だが私の考えではそれは全然ちがう。結婚することが決まったとき、当人にとってその結婚は、そうするよりほかない余儀なき〈事態〉として立ちあらわれてくるのだ。なのに質問者はそこを完全に見逃している。

 

 だから困惑するそうです。結婚は、偶然の積み重ねによって、そうするよりほかない余儀なき〈事態〉として立ちあらわれる。それはちょうど《冒険者が行動中にかんじる、自然には逆らえないというあの認識とほぼ一致している》云々。それ故に角幡さんは、結婚という「事態」を《一緒にいて楽しいから結婚した、みそ汁が美味かったから、巨乳を弄べるから、外見がいいから》といった単純な理由に帰結させません。結婚というのは、そして冒険というのは、そんな単純なものではないからです。そしてここからが教育にもつながる話の肝。

 

 事態が立ちあがるきっかけは偶然の出来事であり、そこから発生する他者との関わりである。大事なのは関わることであり、いかに他者との関わりを深めるかが、じつは今の私の探検の大きなモチーフになっている。


 授業も、単純ではない。

 

 授業において大事なことは学習材を含む他者との関わりであり、子どもたちがいかに他者との関わりを深めるかが、担任の大きなモチーフになります。最初の話につなげると、小規模校の「個に応じた授業」で担任がカーナビのような働きをしてしまうと、あるいは大規模校の「教師主導の授業」で担任がカーナビのような働きをしてしまうと、子どもは目的地に到達することだけを優先し、自分では気づかない重要な何かをうしなってしまうということになります。それがきっと、クラスサイズは学力に影響しない、という話とつながっている。

  

 カーナビに頼ると、大人は道を覚えない。
 担任に頼ると、子供は他者と関われない。

 

  角幡さんは探検をするときにGPSを使わないそうです。GPSを使うと、関与する機会を奪われるから。世界から切断されるから。郡司ペギオ幸夫さんの言葉を借りれば「やってくる」がなくなるから。ガイドブックの『地球の歩き方』を頼りに歩くよりも、何も持たずに歩いた方が、他者との出会いも多いし、風景も迫ってくる。バックパッカーでいえば、そういうことでしょうか。

 

 フランクリン隊の旅ではじめて北極に行ったとき、なぜ私は北極にいるのに、その北極から遊離しているのかのごときエクトプラズム感をもったのか。北極の表層を上滑りしているような虚無をおぼえたのか。もはやその理由はあきらかであろう。GPSを使用することによって北極と本質的な関わりをもつことができていなかったからだ。

 

 GPSに頼らない時間、すなわち担任に頼らない時間をもっともたないと、子どもたちは本来もっているはずの学ぶ力を伸ばすことができません。これまでもそう思っていましたが、角幡さんの『そこにある山』を読んで、あらためてそう感じました。

 

 学校は、午前だけでいい。

 

 子どもに、一人の時間を。

 

 

雪男は向こうからやって来た (集英社文庫)

雪男は向こうからやって来た (集英社文庫)

  • 作者:角幡 唯介
  • 発売日: 2013/11/20
  • メディア: 文庫
 
極夜行

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