猪瀬 先日、高松宮宣仁が亡くなりました。すると、新聞の論調は、たとえば「銀座にお忍びでお出かけになる気さくな宮さま」とか「一個七十円の大福餅を食べた庶民的な宮さま」というふうに傾斜していくんです。これはいったいどういうことなのか。一種の〈放浪のプリンス〉願望ではないのか、と思うんです。スサノオノミコトやヤマトタケルが負った役割が高松宮という皇弟、つまりプリンスに具現されているような気がするんですね。つまり、神話の構造が、神話として古代に置き忘れられるのではなく、時間を飛び超え現代につながってくるような感じですね。まあ、高松宮だけでなく、皇族を辞めたいと騒いだ三笠宮家の〈ヒゲの殿下〉(三笠宮崇仁の長男・寛仁)などにもあてはまるでしょうね。とにかくトリッキーな役割を演じたり、演じることを期待されたりするんですね、彼らプリンスたちは。
(猪瀬直樹、山口昌男『ミカドと世紀末』新潮文庫、1987)
おはようございます。ヒゲの殿下からの「髭」つながりでいえば、文化の日の前日に横浜アリーナで行われた Official髭男dism 全国アリーナツアー「Official髭男dism one - man tour 2021 – 2022 -Editorial-」は最高でした。コロナ後の世界へと向かう、100%の祝祭空間です。
MCにて、ボーカルの藤原聡さん曰く「6年前に横浜のワールドポーターズで演奏したときに『いつか横アリでやります』と話していたことが実現した」とのこと。続けてギターの小笹大輔さん曰く「いきなりではなく、一歩一歩ここまで来られたのがよかった」とのこと。
一歩一歩。
いきなりではなく、一歩一歩。
こういう「クラスの子どもたちに聞かせたい」系のエピソードを耳にすると、教員ゆえ、ついつい反芻してしまいます。継続は力なり。空虚な中心たるミカドが、世紀末を越え、今なお「眞子さまのご結婚騒動」なんてかたちで私たちの目の前に現れるのも、2700年近くもの「一歩一歩」もしくは「一時代一時代」があるからでしょう。それにしても、これからもずっと《トリッキーな役割を演じたり、演じることを期待されたりするんです》かね、彼らプリンスたち、或いは彼女らプリンセスたちは。眞子さまのご結婚騒動を目にした愛子さまや悠仁さまが、やってられないとばかりにヒゲの殿下よろしく「皇族を辞めたい」って騒ぎ出したらどうするのでしょうか。天皇制の edit が必要とされる所以です。
猪瀬直樹さんと山口昌男さんの対談集『ミカドと世紀末』を読みました。眞子さまのご結婚騒動のときに、猪瀬さんが Facebook で紹介していたのがきっかけです。曰く《僕が『ミカドの肖像』を書いた直後に文化人類学者の山口昌男と対談した『ミカドと世紀末』という本があります》云々。すぐにポチッとしました。Twitter にも貼られていて、そこには《ワイドショーと一線を画す言説とは?》とあります。冒頭の引用だけでもその言説の一端がわかるのではないでしょうか。
放浪のプリンセス。
眞子さまは「放浪のプリンセス」だったのかぁ。プリンセスつながりでいえば、映画『コンフィデンスマンJP プリンセス編』(田中亮 監督作品)の主題歌である Official髭男dism の「Laughter」を思い出します。歌詞に《鉄格子みたいな街を抜け出すことに決めたよ、今》とあって、どんぴしゃり。鉄格子みたいかどうかはわかりませんが、眞子さまにも「皇室を抜け出すことに決めたよ、今」という瞬間があったのだと想像します。そして、お願いがかなった。
目次は以下。
第一章 天皇制の神話と実像
第二章 都市と天皇制
第三章 レジャーランドをつくった男たち
第四章 天皇崩御と祝祭空間
第五章 近代のなかの異人
第六章 心のなかのミカド
第七章 『ゆきゆきて、神軍』の提起したもの
第八章 世紀末の天皇制
終 章 王の身体と日本人
終章の後に、Official髭男dism のライブでいうところのアンコールとして「世紀末のミカド ―― 文庫版のための特別対談」が収録されています。冒頭の引用は第一章から。この第一章と、アンコールの特別対談を以下に少し。
山口 大正天皇は、なるほど猪瀬さんが言われるように、天皇でありながら皇子的な要素が常にあるわけです。天皇にして完成した天皇ではなかった。不完全な天皇であったという意味では、潜在的な天皇である皇子ないし皇太子の役割を常に演じて、イメージの中で暗示せられたわけです。明治天皇の肖像はミカドの肖像として、りっぱにみえる「御真影」として定着していくけれども、大正天皇の場合は初めから、チョビ髭を生やした頼りない若者という写真しかずっと知られていない。
第一章より。王権の論理のひとつとして、大正天皇は明治天皇の補完者だったということが書かれています。山口さんの理論でいうと「中心と周縁」。大正天皇が周縁で、明治天皇が中心です。別の視点を与えると、ヨーロッパから見た天皇は周縁で、日本国から見た天皇は中心。さらにこの中心としての天皇に、周縁から中心を脅かす存在としての堤康次郎やら五島慶太やらを対置させ、近代天皇制を立体視して描いたのが、つまりは山口さんの「中心と周縁」論を《僕なりに展開してみた》というのが、傑作『ミカドの肖像』です。ゲンロンの東浩紀さんが高校生のときに読み、猪瀬さんのファンになったという一冊。ミカド三部作シリーズのはじめの一歩。読みましたか?
この「周縁と中心」理論。学校でいうと中心が家庭で、周縁が学校です。学校を中心にすると、周縁が社会です。小中学生の不登校が過去最多とか、小中学生の自殺が過去最多とか、そういったリアルについても、家庭と学校と社会という《三つの存在の相克によって》立体的に視ていかなければ本質はつかめません。コロナの影響で学校行事が減ったから不登校や自殺者が増えたなんていう報道がありましたが、頭の悪さにクラクラします。
話を元に戻すと、大帝であった明治天皇に対し、大正天皇が「道化」の役割を果たしたように、眞子さまも放浪のプリンセスの役割を担っているんだよということになります。歴史を学ぶと、そういった見方・考え方ができる。新学習指導要領の各教科の目標に「見方・考え方を働かせ」という文言が示されているのは、きっと猪瀬さんのファンが文科省にもいるからでしょう。ミカド三部作だけでなく、『天皇の影法師』なども読んでいるのではないでしょうか。
第二章~第六章は、ミカド三部作とこの『天皇の影法師』を読んでから読むとおもしろさが倍増します。同様に、第七章と第八章は、映画『ゆきゆきて、神軍』(原一男 監督作品)を観てから読むと、よい。ただしそれぞれ対談の合間にミカド三部作や『天皇の影法師』の一節であったり、映画の台本の一部であったりが挟み込まれているので、読んでいなくても、観ていなくても楽しめます。
猪瀬 やはり我々の神は八百万神で、そのうえ空虚だから ”展覧会場” になれるんですね。このごろ香港とかタイとか韓国とか、いろんな国のいろんな映画、芸能が入ってきていますね。空虚だからこそ ”展覧会場” になり得るということはありますね。
文庫版のための特別対談(1990年6月)より。20年後に1人当たりのGDP(国内総生産)が韓国に抜かれるなんて、映画『イカゲーム』(ファン・ドンヒョク 監督作品)のような世界を席巻する作品が韓国から出てくるなんて、当時は想像もつかなかったのではないでしょうか。空虚だからこそ ”展覧会場” になり得るという日本の強みがいかされていないということ。クラスの女の子(6年生、一部)も韓国発のBTSに夢中です。猪瀬さん曰く《アレンジ能力ですね、そうすると。空虚な展覧会でアレンジ能力があれば、場所を貸してアレンジすればいいと》云々。
アレンジ能力 ≒ エディット
Official髭男dism の「エディトリアル」ライブが行われた横浜アリーナの斜め向かいにプリンスホテルが建っています。猪瀬さんが『ミカドの肖像』でとりあげた、周縁から中心を脅かす存在こと堤康次郎が《皇族の土地に建てたホテル》です。
だからプリンスホテル。
天皇崩御のときに日本全体が巨大な祝祭空間に包まれるという話が第四章に出てきます。緊急事態宣言明けのライブ会場に横浜アリーナを選んだヒゲの殿下たちも、もしかしたら猪瀬さんのミカド三部作を読んだのかもしれません。ボーカルの藤原さん曰く、
次は日産スタジアムを狙います。
放浪のプリンス。