田舎教師ときどき都会教師

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國分功一郎 著『はじめてのスピノザ』より。実験を重ねて、喜びをもたらす組み合わせを見つけること。それが自由へのエチカ。

 私にとって善いものとは、私とうまく組み合わさって私の「活動能力を増大」させるものです。そのことを指してスピノザは、「より小なる完全性から、より大なる完全性へと移る」とも述べます。完全性という言葉もこのような意味で使い続けようというわけです。
 この考え方は、言うまでもなく、自然界にはそれ自体としては善いものも悪いものも存在しないという考え方と矛盾しません。たとえば胃が丈夫な人にとって、ステーキは元気になって活動能力を高める善い食べ物かもしれませんが、胃弱の人には、お腹が痛くなって活動能力を弱めてしまう悪しき食べ物かもしれません。すべては組み合わせであり、善い組み合わせと悪い組み合わせがあるだけです。
(國分功一郎『はじめてのスピノザ 自由へのエチカ』講談社現代新書、2020)

 

 こんばんは。今日は朝から暗くなるまでずっと「Google for Education」の研修を受けていました。コロナ禍なのに、市役所の一室に集められての集合研修です。「年の瀬」と「研修」という組み合わせは、明らかに私の活動能力を減少させる悪い組み合わせであり、ホント、やめてほしいって、そう思っていたのですが、受けてみると、これがまた意外と、善い。

 

 人は実験しながら自由になっていく。

 

 スピノザの倫理学は、実験することを求めるといいます。冒頭の引用にあるように、善悪に絶対はなく、すべては組み合わせであると考えるからです。その意味では、Google for Education に代表される ICT の活用を柱とした GIGA スクール構想も、スピノザ的な実験といえるかもしれません。國分さんの本を手に、そんなことを考えながらの、仕事納めの帰路でした。

 

 

 國分功一郎さんの『はじめてのスピノザ 自由へのエチカ』を読みました。スピノザといえば、読んだことはないけれど、『エチカ』です。そして詳しくは知らないけれど、デカルト&ライプニッツと並ぶ17世紀を代表する哲学者です。

 読んだこともないし、詳しくというかほとんど何も知らないという私のような素人に向けて、スピノザの入門書 with『エチカ』として書かれたのが、國分さんの『はじめてのスピノザ 自由へのエチカ』です。では、なぜこのタイミングで、

 

 スピノザなのか?

 

 なぜならば、自己責任論という言葉に代表される新自由主義的な社会に生きづらさを感じている人がとても多いから。國分さん曰く《「自由」の全く新しい概念を教えてくれるスピノザの哲学は、そうした社会をとらえ直すきっかけに》なるからです。

 スピノザが生きていた17世紀は《現代へつながる制度や学問がおよそ出揃い、ある一定の方向性が選択された》時代として知られています。近代哲学のデカルト然り、近代科学のニュートン然り。しかしスピノザは違った。違うベクトルで思索を重ねていた。だからスピノザを読むことで「ありえたかもしれない、もうひとつの近代」を想像し、社会をとらえ直すきっかけにしたいというのが、國分さんの、おそらくは切なる願いです。

 章立ては、以下。

 

 第一章 組み合わせとしての善悪
 第二章 コナトゥスと本質
 第三章 自由へのエチカ
 第四章 真理の獲得と主体の変容
 第五章 神の存在証明と精錬の道

 

 第一章から第三章にかけての流れが印象に残りました。冒頭の引用は第一章からとったものです。繰り返しになりますが、善悪はあくまでも組み合わせの問題であり、道徳と違って絶対的なものではない、という話。これって、

 

 平野啓一郎さんの分人概念に似ている。

 

 分人概念というのは、たった一つの「本当の自分」なんて存在しない、対人関係ごとに見せる複数の顔がすべて「本当の自分」であり、それらを全て合わせたものが「その人」である、という考え方です。個人に対して、分人。だから複数の顔のうち、自分がいちばん好きになれる分人、すなわち喜びをもたらす組み合わせ(相手)を大切にしましょう、となります。

 

www.countryteacher.tokyo

 

 スピノザも、喜びをもたらす組み合わせを見つけることを勧めます。なぜならば、それが活動能力、すなわち自分のもつ力を高めてくれるから。この力のことをスピノザはコナトゥスと呼びます。これは第二章に書かれていることで、ちょっとややこしいのですが、このコナトゥスという名の力こそがその人の本質であるとのこと。

 

 本質=力。

 

 男とか女とか、そういった「形」ではなく、何ができるかという「力」こそが「本質」というわけです。古代ギリシアの哲学は「本質」=「形」としていたそうなので、当時、スピノザのこの考え方はコンピュータでいうところの OS(オペレーティング・システム)が替わるくらいのインパクトがあったとのこと。

 

 スピノザは力が増大する時、人は喜びに満たされると言いました。するとうまく喜びをもたらす組み合わせの中にいることこそが、うまく生きるコツだということになります。

 

 だから実験を求めるというわけです。うまくというか、よりよく生きるためには、実験を重ねて、喜びをもたらす組み合わせを見つける必要がある。どこに住むか、何をするか、誰と会うか、等々。そう考えると、義務教育段階でさまざまなことにチャレンジするのは、かなり大事だということがわかります。受験一色や部活一色は、よくない。一色よりも、カラフル。このことに関連して、國分さんは『エチカ』に書かれているスピノザの「賢者観」なるものを紹介しています。

 

 曰く《私の好きな箇所です》云々。

 

 もろもろの物を利用してそれをできる限り楽しむ〔・・・・・・〕ことは賢者にふさわしい。たしかに、ほどよくとられた味のよい食物および飲料によって、さらにまた芳香、緑なす植物の快い美、装飾、音楽、運動競技、演劇、そのほか他人を害することなしに各人の利用しうるこの種の事柄によって、自らを爽快にし元気づけることは、賢者にふさわしいのである。(第四部定理四五備考)

 

 これはまさしく「多くの仕方で刺激されうるような状態」にある人のことです。

 

 国語算数理科社会英語体育音楽図工家庭総合道徳行事等々、あらゆる授業を担当する小学校の先生は賢者になりうるというメッセージでしょうか。授業準備だけでも《多くの仕方で刺激されうるような状態》にありますからね、教員は。長時間労働の問題さえ解決できれば、善い職業なのに。言い換えれば、もっと自由であれば、善い職業なのに。

 

 第三章、自由へのエチカ。

 

 なぜ教員の長時間労働が問題なのかといえば、それはやはり「強制」されているからでしょう。スピノザは、自由の反対に「強制」を置きます。

 

 自発的に残っているんだ、つまり自由意志だ。

 

 そんなふうに主張する教員も(たくさん)いますが、スピノザは自由意志の存在を認めていません。行為は多元的に決定されているからです。多元的というのは、要するにその人の置かれたありとあらゆる意味での環境のことです。環境が原因をつくっているのだから、そこに自由意志はありません。子どもでいえば、宿題をやってこないのも、自由意志の問題ではない。だから教員は、環境に働きかける。つまりそういうことです。

 

 では、自由とは?

 

 自由であるとは能動的になることであり、能動的になるとは自らが原因であるような行為を作り出すことであり、そのような行為とは、自らの力が表現されている行為を言います。ですから、どうすれば自分の力がうまく表現される行為を作り出せるのかが、自由であるために一番大切なことになります。
 もちろんそれを考えるためには、これまでも強調してきた実験が大切です。

 

 ちょっとややこしい。能動やら受動やら、もちろん國分さんなのでこの引用の前後には中動態の話も出てきて、やっぱりややこしい。でも、知的でおもしろい。詳しい説明は『はじめてのスピノザ』に譲るとして、何が言いたいのかといえば、ここ(第三章)でも実験の話が出てくるぞ、ということです。第一章でも第二章でも第三章でも、実験。つまり、自由へのエチカは、実験が鍵を握っているということ。

 自由は、実験を重ねないことには手に入らない。実験を重ねて、喜びをもたらす組み合わせを見つけなければ手に入らない。だから実験のチャンスを奪う長時間労働は倫理に反する。

 

 実験こそが、自由へのエチカ。

 

 日々、実験。 

 

 

 

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