田舎教師ときどき都会教師

テーマは「初等教育、読書、映画、旅行」

磯野真穂 著『他者と生きる リスク・病い・死をめぐる人類学』より。お前、ゴンドラ猫にされるぞ!

 だからこそリスクを提示し介入を試みる専門家は、自らが行う介入が、直接経験を情報経験に塗り替える実践であることに自覚的であるべきだろう。介入によって直接経験を漂泊し続けたのちに、リスクを恐れた被介入者が生活の中で身動きがとれなくなるのなら、それは介入対象を受動的なゴンドラ猫に仕立て上げたのと同じである。もちろん介入者と被介入者が、計算されたリスクを避けることが生きる上で何より大切という価値観を持つならそれも是であろう。しかしここからは介入者と被介入者の人生観の問題だ。
(磯野真穂『他者と生きる  リスク・病い・死をめぐる人類学』集英社新書、2022)

 

 おはようございます。睡眠アプリの Sleep Cycle によると、昨夜から今朝にかけて寝床にいた時間は6時間10分、睡眠時間は5時間04分です。3月、4月と厄に見舞われ、よく眠れていないような気がしたので、4月の半ばから同アプリを使って「睡眠」を測るようになりました。結果、6時間睡眠は死守しているつもりだったのに、

 

 そんなことはまるでない!

 

 驚きの事実というか、発見でした。人類学者の磯野真穂さんいうところの《リスクの実感を身体ではなく情報に依存した形に変えてゆく》という、アプリ(≒ 介入者)による《啓蒙的情報提供》です。私のケースでいえば「寝床にいた時間-睡眠時間=1時間」というのがだいたいのところなので、最近は起床の7時間前には寝て、睡眠時間を6時間以上確保するようにしています。昨夜はその時間を確保できませんでしたが、いずれにせよ、情報によって生活が変わったことは確かです。私たちの人生は《数字に彩られた「正しい知識」》によって、

 

 簡単に変えられてしまう。

 

 そしてそのことに警鐘を鳴らしているのが、長く読み継がれるであろう『他者と生きる』の作者である磯野さんです。伊坂幸太郎さんの小説『ゴールデンスランバー』に出てくる「お前、オズワルドにされるぞ!」という台詞を借りれば、磯野さんの主張はこうなります。

 

 お前、ゴンドラ猫にされるぞ!

 

 

 磯野真穂さんの『他者と生きる   リスク・病い・死をめぐる人類学』を読みました。子どもたちをゴンドラ猫にしてしまう可能性のある教員にこそ読んでほしいと思える一冊です。序論に続く目次は以下。

 

 第一部 リスクの手ざわり
  第1章 情報とリスク
  第2章 正しく想像せよ
  第3章 ゴンドラ猫は恐怖する
  第4章 新型コロナウイルスの実感
 第二部 危機に陥る人々・その救済の物語
  第5章 狩猟採集民という救済
  第6章「自分らしさ」があなたを救う
  第7章 人とは何か
  終 章 生成される時間

 第一部に登場する「ゴンドラ猫」というのは、半世紀ほど前の心理学の実験で知られる猫のことです。生後間もない2匹の猫を、片方の猫には自由を、もう片方の猫には不自由を与えると、その後どうなるかという実験です。

 

ゴンドラ猫の実験

 

 右側の猫が自由に動ける猫(A)、左側の箱に入った猫がそうでない猫(P)です。右側の猫は自由に動くことができます。左側の猫は右側の猫が動くことで、動かされます。ゴンドラが回旋するからです。どちらの猫も見ている世界は同じ。違いは「能動」か「受動」かという動きのみ。ポイントは、ゴンドラから解き放たれた後に、この2匹の猫の身体動作に大きな違いが見られたということ。磯野さんは、哲学者の市川浩さんの『〈身〉の構造ー身体論を超えて』を引きつつ、次のように書きます。

 

 この実験では、生命が世界と関わりつつ、しかしその中で身を守りながら生きる力を身につけるためには、目から受動的に情報を仕入れるだけでなく、その中で自ら身体を動かすことが必須であることを示唆している。先の市川は、直接経験が情報経験によって奪い取られていくことの不気味さを精神疾患の症状に擬えながら指摘した。その不気味さの正体は、情報経験に依拠し、そこからの刺激に一方向的に反応しながら生活をすることが、生命が生命たりうる所以を骨抜きにしてゆくところにあると言えるだろう。

 

 どうでしょうか。教員こそが読むべき内容ではないでしょうか。それも小学校の教員こそが読むべき内容ではないでしょうか。ICT活用だのオンライン授業だのデジタルネイティブだのって、小さい頃から情報経験ばかりを重視していると、その後の成長に不可欠な直接経験とのバランスがおかしなものになってしまいます。子どもが子どもたりうる所以を骨抜きにしかねないということです。お前、ゴンドラ猫にされるぞ(!)って、子どもたちに向かって磯野さんが叫びたくなるのも(叫んでいないしそんなことは書いていませんが)頷けます。

 別の例を挙げれば、回旋塔で遊んで怪我をした子どもと、怪我をする危険性を情報として受け取り、見ているだけで遊ばなかった子どもとでは、その後の成長に違いが出てくるということです。学校は回旋塔を撤去することで、プラスにせよマイナスにせよ、あり得たかもしれない未来を根こそぎ取り除いてしまいますが、リスクの手ざわりを自分でダイレクトに経験する機会を保障しない限り、子どもたちを受動的なゴンドラ猫に仕立て上げてしまう可能性を小さくすることはできません。

 以上、ゴンドラ猫の話を学校の話につなげるとそうなりますが、磯野さんは主に予防医学や新型コロナウイルスの話を例に、私たちが情報によってゴンドラ猫にされてしまう危惧を示します。

 

 志村けんさんみたいになるぞ!

 だからひきこもれ!

 

 それが第一部。

 

www.countryteacher.tokyo

 

 第二部の「危機に陥る人々・その救済の物語」には、個人主義的人間観、関係論的人間観、そして統計学的人間観という、学校の指導案でいうところの「児童観」のような言葉が出てきます。磯野さんが人間の抽象的なイメージを3つに分類したものです。当然、教員が反応すべきは、

 

 関係論的人間観です。

 

 私たち教員は子どもたちを個人としてではなく、関係性の中でとらえるからです。テストでいつも100点をとるAくんも立派だけど、いつも0点だったC君を励まし続けた80点のBくんもステキだよね。その励ましのおかげでCくんは50点をとれるようになったのだから。Bくん、最高。そういったとらえ方です。ものさしはテストの点数だけではないということ。個人主義的、あるいは統計学的人間観ではないということです。ちなみに統計学的人間観というのは、第一部の「リスクの手ざわり」でいうところの、志村けんさんみたいになる可能性が○○%あるぞ(!)だから気をつけろ(!)みたいな人間観です。学校でいうと平均点は80点だからあなたはもっとがんばりなさい(!)みたいな人間観といえるでしょうか。磯野さんはこの統計学的人間観が関係論的人間観を《食い破り続けている》といいます。学校もそうかもしれません。

 

 そうすると、どうなるか。

 

 人生は長さではなく、どう生きたかである。
 人生は長さではなく、深さである。

 

 関係論的人間観は、この2つの命題に力を与えます。逆にいうと、統計学的人間観が優位になってくると、この2つの命題が後景に退きます。なぜか。

 

 答えは『他者と生きる』の中に。

 

 ぜひ一読を!