次々とふりかかる「かもしれない」の中で動きが取れなくなる。
「死から今を照らして悔いのない生き方をする」ことについて宮野さんが感じる欺瞞や、次々とリスクが提示される中で「ふつうに生きてゆく可能性がとても小さくなった気がする」感覚は、こんな構造の中で作られているのではないですか? 宮野さんが「死から今を照らすこと」に違和感を感じるのは、「こんな危ないことが起こる〈かもしれない〉」という、時に自分の人生とは何の関係性もない第三者の予測の中で、いまの可能性が狭められてしまうことに対する違和感なのではないかと考えました。
そしてそれは私にとって、公園の遊具がどんどん大人しくなり、どうやっても怪我は難しそうな滑り台が置かれることとちょっと似ているのです。
(宮野真生子、磯野真穂『急に具合が悪くなる』晶文社、2019)
2週間前に実家に帰ったときに、幼なじみの、でも中学生のときに仲違いして以来、一度も口をきくことのなかった「もと親友」が亡くなったという噂を耳にしました。幼なじみと呼べる、唯一の存在です。
検索したら、最後に顔を見てから四半世紀経った彼の写真が出てきました。私の家からそれほど遠くないところにある、私立大学の准教授になっていました。大学に問い合わせたところ、たしかに「亡くなった」とのこと。死因はわかりません。
人は急に具合が悪くなる。
悲しいとか、寂しいとか、そういった感情ではなく、もう本当に彼とは話をすることができなくなったのだという、閉じてしまった未来に言葉を失います。唯一の幼なじみ。しかも仲違いの原因は私にある。
うまくそのことを話せない「かもしれない」、今さら会ったところでよいことなど何もない「かもしれない」。そんなふうに思っていたのだろうかと自分に問いかければ、そうではなく、ただ単におそらくは連絡を取るという意思がなかっただけ。亡くなったという事実から「会っておけばよかった」という「今」の感情が照らされた結果としての「後悔先に立たず」です。
死から今を照らすこと。
だから先人は「死から今を照らすこと」に意味を見出したのでしょう。メメント・モリとか、『葉隠』の「武士道と云ふは死ぬ事と見つけたり」とか。自他にかかわらず、いつ死ぬかわからないからこそ、いつ死んでもいいように悔いのないように生きろ、と。
その「死から今を照らすこと」に違和感を感じる、というのが宮野真生子さんと磯野真穂さんの往復書簡をまとめた『急に具合が悪くなる』です。死から今を照らすことが、すなわち「急に具合が悪くなる」未来から今を照らすことが、教育や福祉、医療の現場では、本来のメッセージとは逆に、今の可能性を狭めているケースが多いのではないか。そういった問いです。
初任校にあった回旋塔です。都会の小学校では見たことがありません。空中シーソーという別名があって、その名の通り、子どもたちはぶら下がりながら宙に舞って遊びます。
田舎教師が板につき、油断していた3年目。子どもたちがキャーキャーと喜ぶ姿につい力が入ってしまい、高速回転に水平方向の揺れを加えてしまった結果、女の子が手を離し、あっという間に(私の意識の中では走馬燈のようにゆっくりと)地面にバタリ。倒れたその子に駆け寄り、顔を近づけ、意識の有無を確かめる私。地面に近いローアングルから見える、全力で走ってくる教頭先生の姿と、背景の空。
危ないなぁ、と思いながら職員室で見ていました。
幸い大事には至らず。ホッ。学校や公園の遊具がどんどん大人しくなっていくのは、こういったことがあるからなのでしょう。教頭先生のように、遠くから見守る大人が少なくなったことも影響しているのかもしれません。初任校の回旋塔はそのまま残りましたが、いずれにせよ、こんな危ないことが起こる〈かもしれない〉という理由で、全国の学校や公園にあった挑発的な遊具は撤去され、遠心力を全身で感じつつ、地面から浮かび上がるという快楽を経験できた可能性や、巨大なジャングルジムのてっぺんでちょっとした優越感を満たすことができた可能性は、子どもたちの人生から消えます。
消えてしまった可能性が、別の可能性につながっていたかもしれないのに。
死や危険につながる可能性のある無数の「かもしれない」によって、ふつうに生きてゆく可能性が小さくなったり、ありえたかもしれない可能性が見落とされてしまったりすることについて、私たちはもっと意識的になった方がいい。癌を患い、医者に「急に具合が悪くなるかもしれない」と言われた宮野真生子さんや、心の病の中で最も死亡率が高いとされる、磯野真穂さんの専門である摂食障害など、そういった「死」とダイレクトにかかわるケースだけでなく、学校や公園の遊具に見られるように、日常的なところまでその構造は根を下ろしているのだから。
急に具合が悪くなることは、誰にだって起こります。
11月22日。いい夫婦の日。昨日は妻の誕生日でした。数週間前から「ママをイメチェンする」って張り切っていた長女(15)と次女(12)が、LOWRYS FARM の店内で「ママ、これ着てみて」「これも着てみて」とあれこれとコーディネートをしていたら、店員さん(♀)が「素敵なお嬢さんたちですね。私、こういうのちょっとダメなんです」って言って、薄らと涙目になりながら接客してくれました。最後には付箋にメッセージを書いて渡してくれて、妻もちょっとウルウル。いろいろあって、妻はいま休職中ですが、だからこその長女と次女の振る舞いであったり、ウルウルであったりするのかもしれません。
閉じていない未来。
次々とふりかかる「かもしれない」に惑わされることなく、《未来をまるっと見ることの大切さ》を忘れることなく、その可能性を楽しむことができますように。