文章を書くのに、本を1冊も読んだことがない人はいないと思う。いたら、それはそれですごい。わたしは、本に囲まれて暮らしていた父親の影響で、本屋さんと図書館が大好きな人間として育った。
(田中泰延『読みたいことを、書けばいい。』ダイヤモンド社、2019)
定時に学校を出て、行きつけのカフェに寄って珈琲を飲み、30分ほど本を読んでから家に帰るという平日のルーティーン。家に帰ってくると、もうすぐ高校生になる長女ともうすぐ中学生になる次女がリビングで宿題をしています。ノートには文字がびっしりと。十数年の歳月って、すごいな~。
すごいね~🎵
パパうるさい。
あっち行って。
長女と次女がまだ小さかった頃、学級便り(学級通信)に次のような文章を書きました。テーマは、子どもに「なぜ〇〇〇を学ばないといけないのか?」と言われたときに思い出してほしい話、というもの。その入口にあたる文章です。
元厚生事務次官宅連続襲撃事件。先週、このニュースの第一報がテレビ画面の上に字幕スーパーで表示されたときのこと。嬉しそうにテレビに近づいていった長女が一言。
「の」だ!
平仮名を学習中の長女。字幕スーパーの中に書かれていた平仮名に反応しただけのことですが、事件の重さと言葉の軽さのギャップが何とも言えず、そうだね~。
「い」もある!
そうだね~。
思春期から遠く離れて。可愛い盛り。ホント、可愛かったなぁ。そのときの学級便りには、内田樹さんの『昭和のエートス』から《学びとは学び終わったあとになってはじめて自分が学んだことの有用性や意味について知ることができるという順序の転倒したかたちで構造化されている》という文章を引いて、子どもの「なぜ〇〇〇を学ばないといけないのか?」という問いには、むきになって説明したりせずに、あとでわかるよ、とでも言っておけばいい、と書いています。騙されたと思って「の」や「い」を学んでおけば、いつかその「の」や「い」がどこかへ連れて行ってくれるから、というわけです。田中泰延さんも、書いた文章がきっかけとなって誰かに会ったりどこかに行ったり何かを食べたりしたときのことを例に「文字がここへ連れて来た」と書いています。ちょっと意味が違うかもしれませんが。
なぜ思春期なんてものがあるのか。
あとでわかるよ、と未来のわたし。
思春期前の関係がどんなによくても、或いはどんなに悪くても、思春期に入ってしまえば我が子からどう思われるかはわからない。父と娘のかかわりについて、精神医学ではそのような結論を下しているそうです。かつて何度か通った、社会学者の宮台真司さんが開いていた講座「男親の社会学」で教えてもらいました。つまり「パパうるさい」や「あっち行って」を思春期のカオスとして受け入れるしかないということです。とはいえ、知識としてはわかっていても、シカクいアタマでは「カッチーン」とくることもあり、学校でアンガーマネジメントを学んでおいて本当によかった、と思う今日この頃です。
母親は安心を与え、
父親は言葉によって「社会」を持ち込む。
宮台さんの講座でそんな話も聞きました。ただ、思春期の長女や次女にどんなタイミングで、どんな言葉によって「社会」を持ち込めばよいのか、よくわからないというのが正直なところ。我が子が男の子だったらなんとなく想像がつくのですが、女の子は難しいなぁと思います。
先日、18歳になった教え子からフェイスブック経由で連絡をもらいました。入学したときから名を馳せていた、3年生(小学校)のときの教え子(♂)です。4月の体育の授業のときにその子の母親が、校庭のフェンス越しに「あの子がちゃんと体育着を着て授業に参加しているなんて😭」と泣きながら話しかけてきたことを覚えています。そんなユニークさを抱えた子が、思春期のトンネルを抜け、18歳になって、どうなったのか。
フェイスブックの友達、2521人。
大人気です。きっと母ちゃん号泣しています。これだから未来はおもしろい。その子の父ちゃん、いったいどんな言葉によって「社会」を持ち込んだのだろうな。父親の影響について、いつか再会して聞いてみたいものです。
あっ、小休止するはずだったのに、またブログを書いてしまった。101記事目。ワーカーホリックだった父親の影響かもしれない。
長女と次女が《わたしは、本に囲まれて暮らしていた父親の影響で、〇〇〇と△△△が大好きな人間として育った》って、口にしてくれる未来を思い描きつつ、とりあえず今日はもう寝ます。
おやすみなさい。