美紀が今いれば、私には違う人生があったし、それは美紀にとっても同じ事だった。私は美紀を幸福にしたかった。私は美紀と、よくある平凡な生活を、そういった典型的な生活を、ただしたかった。
(中村文則『遮光』新潮文庫、2020)
おはようございます。先月からはじまった「with コロナ」の時代は、ステイホームゆえに「with 我が子」の時代でもあります。カーテンが開き、残業や持ち帰り仕事に遮られていた光が一気に射し込んできた感じです。04年に第一子を授かってからというもの、今回の3月と4月ほどに「典型」を感じることのできた年度末と年度初めはありません。残業や持ち帰り仕事のない「典型的な家族生活」って、こんなにも平凡で、こんなにも幸福なんだ。今のところそう感じています。「Before コロナ」に属する「with 教え子」の時代を懐かしく思い出しながらも、同じように感じている子育て世代の教員がたくさんいるのではないでしょうか。
落差が大きい。
中村文則さんの『遮光』を読みました。デビュー作である『銃』の次に書かれた作品です。主人公が黒い鉄の塊を持ち歩く『銃』と同じように、この『遮光』でも「何かを持ち歩く」という構図が使われています。『銃』では「with 銃」、『遮光』では「with 黒いビニール製の袋で覆われた瓶」です。さて、瓶の中には何が入っているのでしょうか。
ご想像にお任せします。
『遮光』には「典型」という言葉が何度か登場します。「私は典型さを求めた」とか、「テレビみたいに典型だ」とか、「私は典型に憧れた」とか。それこそ典型ではない言い回しなのでひっかかりました。著者もおそらく意図的に使っているのでしょう。冒頭の引用にも「典型的な生活」とあります。典型って、いったい何でしょうか。辞書(大路林 第三版)には次のようにあります。
- 基準となる型。模範。手本。
- 同類の中でその種類の特徴などを最もよく表しているもの。代表的な例として挙げられるもの。 「悪人の-だ」
- 芸術理論において、そのものの本質・特徴を最もよく具現している形象をいう。
学校には1や2の意味での「典型」があふれています。学校スタンダード、模範的な授業、目指す児童像、お手本となる学級経営、いじめの典型だ、など。当たり前のことのように思えますが、これらを苦しく感じる子どもや大人もいます。授業がはじまったらめあてを板書して黄色で囲みましょうとか、明るく強く元気よく生活しましょうとか。典型の輪郭がはっきりすればするほど、その典型さになじめない子どもや大人、或いは非典型に価値を見出す子どもや大人は、生きづらさを感じるようになります。めあてを書く必要のない授業もあるのに。明るくなくても別にいいのに。元気がない日もあるのに。
昼の光に、夜の闇の深さがわかるものか。
ツァラトゥストラの語りでいえば、そういうことです。昼の光が強ければ強いほど、夜の闇が深く、そして濃くなっていきます。
僕はデビュー作の『銃』とこの『遮光』を、とても大切に思っている。特に『遮光』の10章、太陽の場面は、僕の文学の中核をなすシーンだと思ったりしている。あの場面から色々なものが生まれている、と言ったら言い過ぎかもしれないけど、あの場面は僕にとっての中心で、同時にデリケートなところでもある。
解説に書かれている中村文則さんの言葉です。第10章に《男は太陽を背にし、顔は影となりはっきりと見えなかった》という一文があります。幼かった主人公の肩を両手で掴み、男が「いいか、よく聞くんだ」と言って顔を合わせるために屈む場面です。男というのは、白いワゴンを所有する人のよい継父。両親を事故で亡くした主人公の育ての親のひとりです。典型を背負っている男から見える世界と、非典型である主人公の立ち位置から見える世界の「違い」がこれほどまでにうまく表現されている文章はなかなかないのではないでしょうか。白いワゴンと黒い瓶という色の対比も、よい。もちろん典型とはすなわち太陽のことです。
典型と、非典型と。
ちなみにというか当然というか、学校だけでなく社会にも「典型」があふれていて、その「典型」にとらわれればとらわれるほど、人類学者の磯野真穂さんいうところの「ダイエット幻想」や「きちんとしたい社会人でありたい幻想」にとらわれていくことになります。そのことは以下のブログに書きました。この場合は、典型=幻想、非典型=多様性でしょうか。
臨時休校中の現在の生活が眩しいくらいに「典型」だと感じるのは、ブラックと呼ばれる教員の労働環境が、主観的にはあまりにも「真っ黒」だったためでしょう。after コロナの毎日が、before コロナ と with コロナの毎日を足して3で割るくらいの典型さに落ち着いてくれることを願うばかりです。
今日は時差出勤です。
行ってきます。