田舎教師ときどき都会教師

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岩田健太郎 著『感染症は実在しない』より。病気は現象、学力も現象。

(前略)インフルエンザは実在せず、私たちが認識する現象にすぎません。そして、私たちの認識のあり方は、どのように検査をしようとか、どのように治療をしようかという戦略性・恣意性によって変わってきます。私たちの態度、立場、恣意性がインフルエンザという病気、その現象の認識のあり方を変えていくのです。私は、インフルエンザウイルスという病原体の存在については疑っていません(そこまでデカルトチックにはなれないのです)。が、インフルエンザという病気は実在しようがないのです。両者が別物だ、という事実に気がつく必要があります。
(岩田健太郎『感染症は実在しない』インターナショナル新書、2020)

 

 おはようございます。5月に予定されていた Official髭男dism のライブは予想通り延期になってしまいました。チケットをとっていたので Lockdown ではなく Rockdown の気分です。Rockdown なんていう単語はありませんが。代わりに新曲のパラボラを聴いて落ち込みを紛らわせています。パラボラといえば、女優の永野芽郁さんとのコラボ動画が話題になっていましたね。カルピスみたいにさわやかな高校生活が描かれています。でももちろん誰ひとりマスクなんてしていなくて、今となってはもうパラレルワールドにしか見えません。この4月に高校生になった長女も、もしかしたらこんな学校生活を送っていたのかもしれないなぁ。

 

 

 この動画を見ていると、5月半ばからの学校再開なんてとても無理だし、9月入学にしたところで、いわゆるコロナの第2波が来たらどうするのだろうと思ってしまいます。動画でもわかるように、学校は「三密」がデフォルトです。ステイホームはもちろんのこと、ソーシャル・ディスタンスという概念の暗示すらありません。髭ダンのライブだって、これらのことを考えての延期でしょう。髭ダンのメンバーと同じ島根で生まれ育った感染症医の岩田健太郎さんも「ステイホームと距離」の重要性を繰り返し訴えています。

 

 

 岩田健太郎さんの新刊『感染症は実在しない』を読みました。09年に北大路書房から刊行された『感染症は実在しない  構造構成的感染症学』の新装版です。その内容のタイムリーさと古びれなさは、新装版のために書かれたまえがきとあとがきを読むとよくわかります。曰く《2020年のコロナウイルス問題にこそ、本書のような考え方が必要なのです》云々。

 説明文には問いと答えがある。クラスの子どもたちに教えるセオリー通り、この本も問いで始まります。

 

みなさんは、病気が実在すると思いますか?

 

 先に答えを言ってしまえば、冒頭の引用にもあるように《病気は実在しない、現象である》となります。もう少し言葉を足すと《病気は実在せず、ただ人によって恣意的に規定された「こと」にすぎないのだ》となります。この場合の人というのは主に医師のことです。どういうことでしょうか。 例によって「教育」に置き換えつつ、読み進めていきました。先ずは問いと答えのつながりを説明するための事実を2つ。

 

  1. 結核の原因である結核菌は、世界の人口の3分の1、何十億という人に感染している。
  2. インフルエンザの治療薬として有名なタミフルは、その約70%が日本で消費されている。

 

 結核と聞くと、2日前のブログに書いた門井慶喜さんの『銀河鉄道の父』を思い出します。宮沢賢治や賢治の妹トシを死に追いやった病気ですね。トーマス・マンの『魔の山』や、映画『風立ちぬ』(宮崎駿 監督作品)なども頭に浮かびます。小説や映画の題材になっているくらいだから、結核はその昔、現在のコロナと同じくらいに存在感のあった病気だったのでしょう。あっ、普通に「病気」と使ってしまいました。岩田健太郎さんは「病気は実在しないこと」を、この結核やインフルエンザを例に根気強く丁寧に説明しています。

 

 

 事実の「1」を踏まえると、40人学級だったら13人前後の子どもたちが結核菌をもっているということになります。ただし発症の可能性は限りなくゼロ。この場合、この13人前後の子どもたちは「病気」といえるのでしょうか。「結核菌をもっている = 病気」となれば、当然その後に続くのは隔離です。新型コロナウイルスと同じですね。でもそうすると、世界の3分の1、何十億という人々が隔離されなければいけないことになり、医療崩壊どころの騒ぎではなくなってしまいます。ということは「結核菌をもっている ≠ 病気」だな。そう思いますよね。

 

 違うんです。

 

 医師の見立てでは「結核菌をもっている = 病気」なんだそうです。症状が全くなくても、不要不急でも、検査をして結核菌を検出できたら病気と見なす。検査の不確実性はいったん括弧に入れて、戦略的に、恣意的に、矢の如くストレートにそう決めたんだそうです。なぜなら医療現場では白黒をはっきりさせないことには治療をすることができないからです。だから岩田健太郎さんは、結核はもちろんのこと、病気は実在しないと説きます。だって症状の有無にかかわらず、コロナでいうところのPCR法的な検査の不確実性にもかかわらず、《検出できるかできないかで、その存在の有無が変わってしまう》ものを「実在する」「もの」とは言えませんから。それはむしろ「もの」ではなく「こと」、すなわち医師の判断や認識によって変わる「現象」だというわけです。

 

 ややこしいですね。

 

 なぜこんなにややこしいことを言っているのかといえば、病気を「現象」ではなく「実在する」「もの」として捉えてしまうと、事実の「2」に当たる「インフルエンザの治療薬として有名なタミフルは、その約70%が日本で消費されている」というような事態が起きてしまうからです。

 

判断、認識の違いが治療の在り方も変えてしまうのです。

 

 病気を「もの」として捉えてしまうと「判断、認識」すなわち「診断」の力が落ちます。どのように検査をするのか、そもそも検査は必要なのか、患者さんは何を望んでいるのか、そういった「診断」が重要なのに、恣意的な存在である病気を実在すると信じ込んでしまうと、とりあえず検査してみましょうという軽いのりで、いわばオートマティックに検査し、そして「強制的に」治療するという流れができてしまいます。岩田健太郎さんは《その「強制性」こそが問題なのです》と書きます。医師の責任であり、行政や患者の問題でもあります。学校でいえば、子どもの評価を市販のテストに頼ってしまうようなものでしょうか。59点だからCみたいな。Cだから残って勉強しましょうみたいな。同じ59点でも間違えた問題によって学力は違うだろうし、ちょっと話してみれば理解の程度もわかるのに。

 

 医師は診断と治療。
 教師は評価と指導。

 

 医療においても、教育においても、この2つの質の高さが非常に重要になります。タミフルの約70%が日本で消費されているということは、裏を返せば病気を「こと」ではなく「もの」として捉えている医師や患者が多いということです。だから検査陽性即タミフルとなります。

 学力だって「こと」です。最近、学習の遅れという言葉をよく耳にしますが、これも誰かが恣意的に決めた範囲や期限をベースにしていることから生まれてくるものでしょう。そこに診断や評価の質を問うという姿勢はありません。

 

 

 履修主義(習う)から習得主義(できる)へ。

 

 ICTを活用して1対1で子どもを見とる場面を増やし(教師が1対多で子どもとかかわる場面や三密になる場面を減らし)、一斉授業を根拠に「教えたからできるでしょ」に陥りがちな履修主義ではなく、できるようになったかどうかを評価する習得主義に重きを置くようにする。前回の学習指導要領で目指すはずだった習得主義に時代が追いつけば、このご時世ゆえ、評価や指導の在り方も変わってくるだろうなと思います。そういった変化を、with コロナの時代に期待したいところです。もちろん子どもたちに仲間意識を促すための「トゥギャザーする」場面を何らかのかたちで確保しつつ。

 

 病気は現象、学力も現象。

 

 忘れずに。

 

 

感染症は実在しない: 構造構成的感染症学

感染症は実在しない: 構造構成的感染症学

  • 作者:岩田 健太郎
  • 発売日: 2009/11/01
  • メディア: 単行本(ソフトカバー)