私が他者とは違う。それは当然のことだ。当然のことが当然のこととして了解される。個人の中でそれが了解され、仲間のあいだでそれが了解される。
社会全体の中で「違い」が認識され、了解され、許容されるとき、現在も続く、昭和の時代からの「いじめの構造」はだんだんと瓦解していく。そのようにぼくは考えている。現在の絶望的な状況の中でもやや楽観的でいられるのは、そのためだ。
(岩田健太郎『ぼくが見つけたいじめを克服する方法 日本の空気、体質を変える』光文社新書、2020)
おはようございます。臨時休校になってからというもの、平日の夜や土日に持ち帰り仕事をしなくても済むようになりました。コロナ前まで続いていた、昭和の時代からの「定額働かせ放題の構造」が一気に瓦解した感じです。10年以上前から月額540円を払い続けている、神保哲生さんと宮台真司さんによるビデオニュース「マル激トーク・オン・ディマンド」(通称 マル激)も、以前は夏休みと冬休みくらいしか見られなかったのに、今では毎週欠かさずに視聴できるようになりました。現在の絶望的な状況の中でもやや楽観的でいられるのは、そのためかもしれません。
昨夜、感染症医の岩田健太郎さんの新刊『ぼくが見つけたいじめを克服する方法』を読み終わってから、ビデオニュース・ドットコムを開いたところ、何と「第993回(2020年4月18日)」のゲストが「岩田健太郎氏(神戸大学大学院医学研究科教授)」とあるではないですか。びっくり。さすがマル激です。ブログを書く予定でしたが、いてもたってもいられず、約2時間、見入ってしまいました。タイトルは「向こう数年間は周期的なロックダウンを繰り返すことになる可能性も」です。岩田健太郎さんの見解について、メモしたことを紹介します。
- 人類が経験してきた感染症の歴史でいうと、新型コロナウイルスはここ100年で最悪の感染症であると認識している。その前は、1918年、第一次世界大戦の終盤に流行ったスペイン風邪。規模としては20世紀最悪といわれるスペイン風邪の次に位置づけられる。
- 新型コロナウイルスの怖さは「怖くない」ところ。そういう矛盾した特性をもっている。多くの人が軽症、或いは無症状のまま治ってしまうため、大したことはないだろうと油断して、交流し、感染を広げてしまう。シエラレオネで流行ったエボラ出血熱のときは、その致死率の高さゆえに「みんなで闘う」という機運がすぐに高まった。新型コロナウイルスはその機運が高まらないため、感染拡大が起こりやすい。
- 感染者が一定数を超えると、病院が疲弊し、医療者も感染してさらに病院が疲弊していくという悪循環に陥る。真綿で首を絞めるようにどんどん追いつめられていく。感染者が少ないときは怖くない感染症だが、初動が遅れると取り返しのつかないことになる。
- プランB(現状がうまくいかなくなったときのプラン)はある。それはロックダウン。フランスやインド、アメリカのニューヨークがやっているのと同じ。日本だけが例外ということはない。プランCは、例えばジョギング禁止などの、もっと辛いロックダウン。
- 一人二人のジョギングであれば本当は問題がないが、国が「ジョギングはOK」とアナウンスすると、日本人はみんなでそれをやり始める。ジョギングは呼気が荒くなるから、集団でやるとリスクが上がる。アナウンスそのものが集団を生むという一面があり、禁止せざるを得なくなる。
- ジョギングを含め、どんなアナウンスでも条件が変われば有効かそうでないかは変わる。だから概念理解が必要。それがリスク・コミュニケーション。ただし多くの人は概念理解を苦手としていて、シンプルに「こうしろ」を求める。だからマスクをするかしないか、PCR検査をするかしないか、三密を避けるかどうかという白か黒かの話になってしまう。
- マスクよりも距離。マスクに気を遣うよりも、あなたの周り2mに人がいるかどうかという、その距離に気を遣ってほしい。
- 三密は「満員電車に乗れなくなったらどうするんだ」などの意見に対する忖度から生まれたもの。三密よりも「手指消毒と距離」が大事。
- オリンピックの延期も緊急事態宣言も本来であれば迅速に判断すればそれで済んだはずなのに、政治家は「仕方がない」という空気が醸造されるまで待った。日本は昔からそう。科学よりも空気が優先される。ちなみに遠隔会議は空気の醸造感がないからすぐに終わる。
- コロナを抑え込むことと生活を取り戻すこと。そのミッションを達成するためにはどうしたらいいのか。それを科学と事実をもとに考える。日本は科学や事実に対する信頼が低い。事実よりも観念や願望、もっというと欲望が優先されてしまう。それが隠蔽や矮小化につながる。(子供のいじめ問題でも、事実よりも観念や願望、欲望が優先された結果、隠蔽や矮小化につながっているケースが多い。新刊『ぼくが見つけたいじめを克服する方法』に書かれています。)
- 感染者が増えた今となっては、東京で検査を増やすのは賛成。ただし岩手や鳥取で検査を増やす意味はない。検査派ですか(?)という質問にも意味がない。検査の数は結果であって目的ではない。
- リスクは濃淡で考える。例えば発症している人の感染力は時速120㎞で走っている車で、感染しているけれども発症していない人の感染力は時速15㎞で走っている車と考えればいい。どちらも死亡事故は起こすが、危険なのは前者。
- プランCが実行された場合の収束シナリオは3つの仮説をもとに考えることができる。1つ目はコロナに罹ると免疫がつくのかどうか、つくとしたらどの程度の免疫がつくのか。2つ目はワクチンがいつできるのか、或いはできないのか。3つ目は治療薬がいつできるのか、或いはできないのか。仮説次第で収束の仕方は変わる。
- 今後は、ロックダウンのハードルの微増微減で調整するしかない。おっかなびっくりしながらの出口戦略。ソフトランディングするために、向こう数年間は周期的なロックダウンを繰り返すことになる可能性もある。悲観的に言えば、散発的なロックダウンが防空警報のように日常化するということ。
- 新型コロナウイルスは、みんなが同じ事をすることによって広がる。みんながそれぞれ違うことをしていれば広がらない。人と違うことをしている限り、集団はできないから。日本人が苦手としていることだが、新たな価値観が求められている。人と違うことに耐え、他人が自分と違っていることを許せるか。そこに何らかの前進がある。
箇条書きの最後の太字のところは、視聴者へのメッセージとして伝えられた内容です。これは、新刊『ぼくが見つけたいじめを克服する方法』に書かれているメッセージと同じです。コロナと同様に、子供のいじめも《社会全体の中で「違い」が認識され、了解され、許容される》ようになれば、だんだんとなくなっていく。学校ではなく「社会全体の中で」というのは、ダイヤモンド・プリンセス号で岩田健太郎さんの身に起きたような「大人のいじめの構造」が、子供のいじめの遠因となっているという問題意識ゆえです。
いじめを克服するためのファクトに基づくプラクティカルな方法から、「違い」を生かすコミュニケーションの在り方まで、空気が読めなくても楽しく生きていくためのヒントがたっぷり詰まった『ぼくが見つけたいじめを克服する方法』。ビデオニュース・ドットコム(マル激)と合わせて、ぜひ🎵