國分 授業もそういう意味では中動態ということだよね。つまり、教師が能動で、生徒が受動じゃダメで、そこに中動態的なプロセスがなければいけない。
千葉 そう。だから、最近流行りのアクティブラーニングとか言って、学生にアクティブに課題か何かをやらせて、それに対して教師がアドバイザー的に関わるなんていうのは、能動・受動の二項対立の枠組みに囚われたまま反転しているだけだから、まったくダメ。アクティブラーニングより、これからはミドルボイスラーニングをやっていかなきゃいかんと思うわけですよ。
(國分功一郎、千葉雅也 著『言語が消滅する前に』幻冬舎新書、2021)
こんばんは。今日も今日とて言語が消滅する前に地球が消滅するのではないかという暑さでした。今週もまた、水泳ができず、校庭でも遊べず、体育館での体育もできずという状況が続くのでしょうか。エアコンの設定が「18℃、急」の教室にいても、コロナ対策で換気をしているために涼しさはあまり感じられません。子どもたちがアクティブに学べば学ぶほど、教室の温度は上がり、絵本『ちびくろサンボ』に出てくる4頭のトラのごとく、子どもたちと一緒に溶けていく感覚に陥ります。能動・受動の二項対立の枠組みが消滅し、ある種の中動態的なプロセスが始まったのかもしれないって、そんな無理のある肯定的解釈にすがりたくなるのも、人間らしさを失いかねないこの暑さが原因でしょう。
國分功一郎さんと千葉雅也さんの『言語が消滅する前に』を読みました。副題は「『人間らしさ』をいかに取り戻すか?」で、言語の消滅という危機意識をベースにした、哲学界の俊英による対談本です。言語の消滅というのは、千葉さんが「おわりに」に書いている《ブログやツイッターからインスタグラムへ、さらに TikTok へという流れは、隠喩や多義性が弱体化し、より直截的な知覚と情動が優位になっていく過程を示している》という身近な現象を挙げれば伝わるでしょうか。
目次は以下。
第一章 意志は存在するのか
第二章 何のために勉強するのか
第三章 「権威主義なき権威」の可能性
第四章 情動の時代のポピュリズム
第五章 エビデンス主義を超えて
第一章は國分さんの『中動態の世界』から、第二章は千葉さんの『勉強の哲学』から考えるという内容になっています。
冒頭の引用は第一章からとったもの。
中動態というのは、かつて存在した「能動態でもなく受動態でもない態のこと」で、國分さんは『中動態の世界』において《能動と受動の対立においては、するかされるかが問題になるのだった。それに対し、能動と中動の対立においては、主語が過程の外にあるか内にあるかが問題になる》と説明しています。能動と受動という見方・考え方ではなく、能動と中動という見方・考え方を働かせていた時代があったということです。詳しくは『中動態の世界』に譲りますが、教員として興味深いのは、対談に出てくる《勉強には中動態的な良さがある》というところ。中動態的な良さというのは、千葉さんの『勉強の哲学』を参考にすれば、
独学であり、
孤独であり、
継続であり、
つまりは教師が能動で、生徒が受動というような枠組みからは遠く離れたところにある良さを意味します。主語が過程の内にあるとすると、ジョン・デューイのプラグマティズム、すなわち動機付け主義もこの中動態的な良さに親和的なのではないでしょうか。
いま話しながらわかってきたんだけれども、コミュニケーションという言葉は独立した主体が対峙する図式をどうしてもイメージさせるんですね。この図式に抗わなければいけないのではないか。コミュニケーションではなくて、一緒に主体形成することが大切だと思うし、教育はそういうものではないか。それこそ「中動態」を通じて考えたかったのもそういうことだなという気がしています。
というのも、コミュニケーションの図式ではすべてが能動と受動の関係で考えられていますよね。僕はそこにこの言葉の限界を感じる。ドゥルーズが言う「一緒にやる」はコミュニケーションではないし、能動でも受動でもない。ある種の中動態的なプロセスが開始することへと誘う言葉だと思います。
これは第三章の國分さんの言葉です。続けて《僕は教育はコミュニケーションではないという気持ちがやはりありますね》とあります。勉強も、教育も、
コミュニケーションではない。
つまり能動と受動の関係ではなく、ある種の中動態的なプロセスこそが教育であり勉強だということです。おもしろいなぁ。国語教師だった大村はまの「優か劣か、そんなことは忘れて教師も子どもも学び浸ろう」をもじれば、「能動か受動か、そんなことは忘れて教師も子どもも一緒になって学び浸ろう」となるでしょうか。そういった一緒になって学び浸る時間を授業の中にどれだけ位置づけることができるのか。それが担任の腕の見せ所のように思います。
中動態的な見方・考え方に加えて、教員として興味深かったのが第五章のエビデンス主義の話。
ところが、エビデンス主義には別の側面があって、非常に少ないパラメータだけを使って真理を認定するので、個人の物語を無視するわけです。
小学校で働いていると「目指す児童像を低学年、中学年、高学年のそれぞれで明確にすべきだ」みたいな話を聞くことがあります。ボーッと生きていると、その意見が通ってしまって、次のような作文をして「あーでもない、こーでもない」と不毛な話し合いを続けなければいけなくなります。
低学年 自分の思いや考えをもち、友達に伝えることで、自分の頑張りに気が付ける
子
中学年 めあてに向かってすすんで活動し、できた喜びを感じられる子
高学年 主体的に学習に取り組み、考えを深める楽しさを味わえる子
どこかの小学校の「目指す児童像」です。検索したら出てきました。こういう学校では働きたくない。個人の物語を無視しているからです。自ら学ぶ子。やさしい子。たくましい子。目指す児童像なんて、それくらい大雑把でいい。
通知表もそうです。保護者が「説明責任」を求めれば求めるほど、非常に少ないパラメータ(例えばテストの点数)だけを使って成績をつけることになるので、数値化されない個人の物語は無視されることになります。要するに、
言語が消滅する方向性です。
だから私たちは、中動態的な見方・考え方を働かせることで、それからエビデンス主義に抗うことで、「人間らしさ」を取り戻さなければいけない。おそらくはそういうことでしょう。
明日、プールに入れますように。
おやすみなさい。