いまや高柳健次郎の抱いたSF的な夢は技術的な努力の延長のうえに克服されたし、正力松太郎がとり憑かれた大衆を虜にする見世物は企業的に成功した。すでに僕たちはその結果を享受している。
(猪瀬直樹『欲望のメディア』小学館、2013)
こんばんは。すでに僕たちはその結果を享受しているって、カッコいい書き方だなぁと思います。授業だったら、この一文の効果は(?)とか、僕たちが享受している「その結果」とは(?)なんて訊いてしまいそうです。高柳健次郎(1899-1990)の抱いた「SF的な夢」を、すでに僕たちは享受している。正力松太郎(1885-1969)がとり憑かれた「大衆を虜にする見世物」も、すでに僕たちは享受している。では、その夢って何なのか。その見世物って何なのか。現在へと続いている「その結果」って何なのか。
正解は、テレビです。
テレビといえば、光村図書の教科書を使っている小学5年生は、ちょうどこれからメディア・リテラシーの学習に入るのではないでしょうか。教材の「想像力のスイッチを入れよう」は、テレビキャスターだった下村健一さん(1960-)が書き下ろした説明文です。
下村さんは「想像力のスイッチを入れよう」の最後に、こう書いています。曰く《あなたの努力は、「想像力のスイッチ」を入れることだ。あたえられた小さいまどから小さい景色をながめるのではなく、自分の想像力でかべを破り、大きな景色をながめて判断できる人間になってほしい》。小学校の教科書でなかったら、こう続けたかもしれません。想像力のスイッチを入れることができないと、最悪、人の命を奪うことになるかもしれませんよ、って。
04年の鳥インフルエンザ事件がその典型。
メディアによるバッシングによって、渦中にいた浅田農産の創業者夫婦が自殺してしまった事件です。バッシングの最中、下村さんは自身の Web サイトに「鳥インフルエンザの浅田農産会見を敢えて評価する」という題名の記事を書いて、創業者夫婦を擁護したといいます。この事件に関して、作家の森達也さんは《今のこの世界に下村さんがいることが、涙が出るほど嬉しい(大袈裟かな。でも本当です)。彼がどんな思いで首にロープを巻いたのか?最後にどんな言葉を老妻と交わしたのか?…自らを主語として想像できるメディアがあるのだろうか?…つらいです。》と綴ったとのこと(Wikipediaより)。下村さんも森さんも、想像力のスイッチが入りまくりです。
20年からはじまったコロナ禍がその典型。
後年、そんなふうに言われないようにするためにも、改めて《テレビというメディアが、日本人の意識のどのあたりに棲みついて、僕達の肉体をどう揺さぶってきたのか、立ち止まって考え》る必要があります。インターネット全盛とはいえ、子どもたちに「新聞、テレビ、ラジオ、インターネットの中でいちばんよく使っているものは?」と訊ねると、依然として9割以上の子が「テレビ」と答えますから。SF的な夢も、大衆を虜にする見世物も、まだまだ私たちの肉体を揺さぶり続けているというわけです。
猪瀬直樹さんの『欲望のメディア』を読みました。『ミカドの肖像』と『土地の神話』に続く「ミカド三部作」の完結編にあたる作品です。前二作と同様に「学者のように調べ、小説のように書かれて」いて、テレビよりもおもしろい。
老人は、古い芝居に出てくる大入道のように奇怪で偉大な顔をしている。
プロローグのはじまりからしてこれですからね。小説っぽい。そしてこの老人はベン・シャープという73歳(当時)の元プロレスラーで、サンフランシスコに住むこの老人の家を猪瀬さんが取材のために訪ねるというのだから、学者っぽい。
「親愛なるベン・シャープ殿。貴殿が東京を訪問した1954年2月17日にはじまった一ヶ月の出来事について、できうるかぎり詳細に語っていただきたい。あの輝かしい男の思い出とともに」
取材に先立ち、猪瀬さんが送ったという手紙です。あの輝かしい男というのは、力道山(1924-1963)のこと。《テレビはプロレスにより、プロレスはテレビによって、認知された。力道山はテレビのおかげでヒーローとなり、テレビはヒーローを生むことで視聴者を吸引できた》。知りませんでした。力道山をはじめとするさまざまな人々の欲望を呑みこみ膨れあがっていったテレビというメディア。その来し方行く末を描いた『欲望のメディア』の目次は、以下。
プロローグ
第1章 遠視鏡の夢
第2章 アメリカの光
第3章 日本式ネットワーク
終 章 最後の開局
あとがき
小学館文庫版刊行にあたって
参考文献
解 説 イデオロギーからアーキテクチャへ 東浩紀
主役は冒頭に引用した高柳健次郎と正力松太郎です。力道山が準主役といえるでしょうか。時代は第1章が戦前、第2章が戦後の連合国軍占領下、そして第3章が主権回復(占領終結)後の日本です。
第1章 遠視鏡の夢
テレビという夢をかかえた高柳青年が、一地方の高等工業学校の小さな研究室で始めた実験は、昭和天皇の行幸によりオーソライズされる。
ミカドシリーズですからね。やはり天皇が登場します。遠視鏡というのはテレビのこと。そして高柳青年というのは、やがて「日本のテレビの父」と呼ばれるようになる工学者・高柳健次郎のことです。
昭和天皇 meets 高柳健次郎。
ベルリンオリンピックの6年前、昭和5年(1930年)に、昭和天皇が高柳の勤務していた学校にやってきます。開発途中のテレビを「天覧」するためです。同僚や保護者の参観でさえ緊張するのに、いわんやミカドをや。想像するに、緊張どころではなかったのではないでしょうか。しかしその「天覧」によって、高柳のSF的な夢は劇的に《オーソライズされる》ことになります。
お墨付きをもらった!
天皇のお墨付きによって、高柳は文部省やらNHKやらの支援を得られるようになります。その6年後には、東京日日新聞(現、毎日新聞)に《東京オリンピックに本格的なテレビ中継が実施されるだろう。それはひとえに高柳健次郎教授の去就にかかっている》と書かれるほどに。肩書きも、いつの間にか教授に。天皇の天覧によって、青年時代のSF的な夢は現実味を帯びていったというわけです。
が、現実は厳しかった。
戦争が始まったからです。高柳が牽引してきた日本独自のテレビ開発も、史上初のテレビ中継を夢見ていた東京オリンピックも、ゆるやかな死を迎えることに。猪瀬さんは、戦時下におけるテレビ開発について、日本とドイツを比較し、次のように書きます。これがまたとても興味深い。
僕は、ヒトラーのファシズムに代わる総動員体制のメディアを、「御真影」と隣組制度による口コミだったと考えている。
ヒトラー率いるドイツがテレビ開発に力を注ぎ続けたのとは違って、日本の軍部はテレビ開発にもオリンピックにも冷淡だった。その結果、ヒトラーがメディアの前に出るようになったのに対して、天皇は「御真影」の影に隠れるようになった。立ち位置は違えど、そうすることによってヒトラーも天皇も威光を帯びるようになった。学校のテストの場面でいうと、先生が教室の前にいるのか、後ろにいるのかの違い。前にいる場合は子どもたちの目を意識する必要がある。だからヒトラーやゲーリングは、現代でいうところのアイドルと同じで、メディア空間の中でヒーローを演じるようになった。後ろにいる場合は子どもたちの目を意識する必要はない。だから昭和天皇は、フーコーでいうところのパノプティコンと同じで、誰の目を意識することもなく影法師に徹することになった。
日本のテレビ技術者は軍部に振り回されて戦後を迎えた。
戦後、ヒトラーと同じようにメディア空間の中でヒーローを演じることに長けていたマッカーサーがやってきたときに、メディアの前に引きずり出された昭和天皇が太刀打ちできるわけはなかった、というのが第2章の始まりです。
第2章 アメリカの光
第2章の主役は正力松太郎です。『ミカドの肖像』に堤康次郎あり、『土地の神話』に五島慶太あり、そして『欲望のメディア』に正力松太郎あり、です。
国民は写真を見た瞬間、天皇に代わる新しい ”国家元首” が誰なのか、一目で悟った。
マッカーサーは、映像のなかの別の自分を、ヒトラーに勝るとも劣らない天性の勘の良さと用意周到さで、許容していたことになる。
マッカーサーのもとには「あなたの子供を産みたい」なんていう日本人女性からの手紙が80通も来ていたそうです。95年の地下鉄サリン事件のときに、オウム真理教の「ああいえば、上祐」にファンレターを送っていた女性がたくさんいたという話と重なります。写真にせよテレビにせよ、映像メディアって、恐ろしい。一枚の画は一万語に勝る。その映像メディア、特にテレビという新たなメディアに「大衆を虜にする見世物」としての可能性があると見抜いたのが、元警察官僚で、読売新聞社の社長だった正力松太郎です。
正力の資質は、『ミカドの肖像』に登場する西武グループの創始者堤康次郎や、『土地の神話』の主人公、東急グループの祖五島慶太にきわめて似ている。
日本人は勤勉で、ひたすら仕事に喜びを見出してきた、とする考え方には修正が必要なのだ。堤も五島も、レジャーランド構想と鉄道事業を重ね合わせながら、業容の拡大を続けた。彼らは大衆の欲望の所在に敏感だった。日本人の勤勉性を否定しないが、享楽的なポテンシャリティもぬかりなく見抜いている。
正力松太郎は、戦後しばらく巣鴨プリズンに収容されていたんですよね。東條英機や岸信介なんかと一緒に。その独房でたまたま向かい合わせになったのが、日産コンツェルンの創始者として知られる鮎川義介で、この偶然の出会いが、巡りめぐって民放テレビ局の船出へとつながっていくのだから、歴史というか猪瀬さんの「小説のような語り」はおもしろい。独房の配置図を眺めていてそのことに気が付いたという猪瀬さんは《 ”席順” が人の運命を決めることもある。偶然は怖い。》と書いています。何はともあれ、正力松太郎がいなかったら、民放テレビが公共放送であるNHKに先んじて免許を得るなんてことはなかった。西ドイツと比較すればそれは明らかで、西ドイツでは1984年まで民放テレビがなかった。その理由について、猪瀬さんは《僕はあえてこう言おう。》と勢いをつけてから、次のように書きます。
西ドイツには正力松太郎に相当する人物がいなかった、と。
解説を書いている東浩紀さんも《たとえば本書であれば、日本のテレビはなぜ民放中心で娯楽中心になったのか、それは正力松太郎がいたからだと明確な回答が与えられている》 とそのことを強調しています。なるほど、テレビがおもしろくないのは、元をたどれば正力松太郎のせいなのか、という感想はさておき、第2章でいちばん興味深かったのは、第1章で登場した高柳健次郎が再び登場した場面です。正力松太郎と争うんですよね。シンプルにいえば、高柳が推す国産のテレビを採用するのか、正力が推すアメリカ仕様のテレビを採用するのかという争いです。結果は正力の勝利。でもそのことが、後に日本製の電気製品がアメリカの市場を席巻することにつながったというのだから、ホント、おもしろい。
日本は戦後の一時期、実質的にアメリカの植民地だった。NHKと高柳健次郎が国産のシステムでテレビ放送を開始しようとしたとき、アメリカは日本の市場を宗主国のシステムで満たそうと考えた。彼らの軍事戦略に組み込もうとした。正力松太郎にとっては、テレビという興行をただ早く完成させればよい。RCAの機械を入れることに抵抗のあるはずがない。そのアメリカの市場が日本製の電気製品であふれかえることなど、到底想像できなかった。高柳が正力に敗れなければ、日本は独自のシステムでテレビ放送を始めていただろうから、日本のテレビ受像機との間に互換性がなく、アメリカ市場を席巻する機会は遠のいたと思う。
GIGAスクール構想のもと、私の自治体は Google の「G Suite for Education」を採用するそうですが、もしかしたらこのことがきっかけとなって数十年後にアメリカの市場を日本製のソフトが席巻するなんてことに、ならないだろうなぁ。
第3章 日本式ネットワーク
第3章の主役は力道山です。プロローグでも話題となっている力道山。ヒトラーやマッカーサーと同様に、メディア空間の中でヒーローを演じることのできる、類い希なるショウマンです。第1章からのつながりでいえば、「高柳がつき、正力がこねしテレビ餅、リングで喰らうは力道山」となるでしょうか。力道山とタッグを組んだにもかかわらず、餅を喰らうことができなかった木村政彦という人に、ちょっとした共感を覚えました。木村というのは、戦前、
木村の前に木村なく、木村の後に木村なし。
そう評されていたという、柔道のチャンピオンです。木村はショウマンになれなかったんですよね。だから視聴者の前に無様な姿をさらして力道山の引き立て役になってしまった。共感を覚えたというのは、オンラインとオフラインでは必要とされる力がかなり違うのに、想像力のスイッチを入れることなく「オンラインでも授業をしてほしい」という声をここ最近よく耳にするからです。簡単に言わないでほしいなぁ。オフラインでは有能な教師が、オンラインでは無能な教師になってしまう可能性も想像してほしいなぁ。力道山に恨みをもったまま現役を退いた木村は、《僕は木村に会ってみたくなった。幾度も断られ、一年後にようやく取材を許された》という猪瀬さんに、こう答えています。
「私が座禅を組んで念をかけた。すぐには死ななかったが、十年後に死んだ」
七十二歳の木村は、力道山の不慮の死を、そう理解していた。
怖っ。怖い話もあれば、皇太子・美智子妃の「御成婚」パレードのようなビッグイベントもあって、とにもかくにもメディアとしてのテレビはネットワークを広げていきます。それは猪瀬さんが『欲望のメディア』を書いた後に広がっていったメディアとしてのインターネットとよく似ています。前回のブログに書きましたが、映画『NETFLIX 世界征服の野望』の内容が『欲望のメディア』を彷彿とさせるなぁと思ったのは、そういったわけです。
国語だけでなく、社会の単元「情報化した社会と産業の発展」でもテレビのことを学習していて、メディア尽くしのここ数日です。せめて読書くらいは「全く関係ないものを」と思って、柳美里さんの話題の『JR上野駅公園口』を読み始めたところ、メディアではないものの、ミカドが登場して、びっくり。そのことはまた、別の機会に書きたいと思います。
おやすみなさい。