田舎教師ときどき都会教師

テーマは「初等教育、読書、映画、旅行」

斎藤幸平 著『ぼくはウーバーで捻挫し、山でシカと闘い、水俣で泣いた』より。環境問題も労働問題も教育問題も、システムの問題。

 うちに閉じこもらずに、他者に出会うことが、「想像力欠乏症」を治すための方法である。だから、現場に行かなければならない。現場で他者と出会い、自らの問題に向き合って「学び捨てる」ことが、新しい人々とのつながりを生み、新しい価値観を作り出すことにつながる。その小さな変化が誰もがもう少し生きやすい社会を作ることにつながっていく。それって素晴らしいし、実際やってみると楽しいこともたくさんある。だとしたら、やるしかない。
(斎藤幸平『ぼくはウーバーで捻挫し、山でシカと闘い、水俣で泣いた』KADOKAWA、2022)

 

 こんにちは。学校に閉じこもらずに、他者に出会うことが、「想像力欠乏症」を治すための方法であると、私もそう思っているし、おそらくは授業力向上にもつながるので、先週、東京は品川区の中延にある隣町珈琲まで足を運んで、内田樹さんと斎藤幸平さんの対談「移行期を生き延びる思想」を聞いてきました。ちなみに「想像力欠乏症」というのは、佐藤千矢子さんが著書『オッサンの壁』で批判している「オッサン」の病理のことです。

 

 

斎藤幸平さんにサインしていただきました(2023.2.14)

 

 祝福、歓待、承認。学校の外側にいる他者らしい言葉です。学校の内側ではなかなか耳にすることがありません。内田樹さん、続けて曰く「ぶっちゃけ、教師は教科の内容なんて理解していなくてもいい。どうせ教科書に書いてあるんだから」云々。ぶっちゃけとは言っていなかったかもしれませんが、主旨としてはそういったことを話していました。100%の同意とまではいかないものの、これまた想像力欠乏症を治すために必要な見方・考え方だと思います。

 

 以下、言い回しは正確ではありませんが、備忘録のためのメモ(内田さんと斎藤さんの発言)より。

 

  • アメリカやイギリス、フランスや韓国などの共産党は壊滅しているのに、日本には表舞台に残っている。なぜか。それはコミンテルンから距離を取っていたから。日本の共産党は特殊。大学でのマルクス研究も途絶えなかった。だから斎藤幸平さんが生まれた。
  • 政治運動の形態は未来社会の萌芽でなければいけない。最近、世界ではそうなっている。
  • アメリカでは年齢を重ねても保守化しない層が出てきた。日本でいうと、氷河期世代もそう。社会成長の恩恵に預かっていないから。
  • アメリカの北軍にマルクスが祝電を送り、リンカーンがそれに応えたという史実がある。つまり1860年代のアメリカは社会主義がドミナントだったということ。
  • 中国では『人新世の「資本論」』の出版の許可が下りない。若者に「脱成長のコミュニズム」という考え方を届けたいのに。でも、それがよくないらしい。
  • 自由と平等の両立は難しい。自由は勝者の、平等は敗者の価値観だから。自由は強者が訴えるもので、カッコいい。平等は弱者が訴えるもので、カッコよくない。
  • 人口増局面の環境破壊よりも、人口減局面の環境破壊の方がひどそう。都市に人口が集中し、地方にはいなくなるから。原発やソーラーパネルが誰もいない地方を覆っていく。人口減少社会においては、必ず都市への一極集中が起こる。出生率が日本よりも低い韓国では、ソウルが今まさにその状況に陥っている。
  • コモンの再生と維持には、自分たちでルールを決めたという実感があるということが大切である。
  • 扱いにくいものを扱うときに、人は成長する。
  • 日本の組織は、何をするかに力を注ぐのではなく、ヒエラルキーの確認などを含めた組織マネジメントに力を使っている。だからブルシット・ジョブばかり。
  • たとえシステムが抑圧的であったとしても、ここだけはよい風を吹かすという気概が必要。教室にアジールをつくる。
  • 日本の教育システムは為政者にとって本当に都合のいいものになっている。

 

 政治運動の形態は未来社会の萌芽でなければいけない、というところがなんともいえず良い。平等な社会を目指したければ(世界の上位1%の富裕層だけで、世界全体の4割近くの個人資産を保有しているというような社会システムを変えていきたければ)、それを目的とした政治運動の参加者も平等でなければいけないという話です。世界のトレンドとして、教室での学びの形態が小集団による助け合いにシフトしているのも、そういった知見と無縁ではないでしょう。教師の学びの形態も然りです。フラットな小集団をつくって、助け合いながら新しい価値観をつくって、もう少し働きやすい学校をつくっていく。マルクスや斎藤幸平さんが推すところのアソシエーション主義に近いでしょうか。そんなわけで、現場に飛び込んだ斎藤さんを活字で追いかけてみました。

 

 

 斎藤幸平さんの『ぼくはウーバーで捻挫し、山でシカと闘い、水俣で泣いた』を読みました。学者は現場を知らないというステレオタイプな印象を覆すべく、2年間かけて日本各地の現場に足を運んで勉強に勤しんだ若き思想家による見聞録です。著書『人新世の「資本論」』で一躍ときの人となったマルクス推しの天才は、どのような言葉で現場を綴ったのか。目次は以下。

 

 第一章 社会の変化や違和感に向き合う
 第二章 気候変動の地球で
 第三章 偏見を見直し公正な社会へ

 タイトルに絡めてざっくりと紹介すると、ウーバーで捻挫した話は第一章に出てきて《「気にくわないなら、去れ。自転車で配達できる労働者はいくらでもいる」と言われている気分》になったとあります。まるで教育現場のよう。そういった気分を放置してきたが故の「教員不足全国2800人」ですから。山でシカと闘った話は第二章に出てきて《この非常なまでの無関心さこそが、食肉産業に大きな歪みを生んでいる》とあります。これまたまるで教育現場のよう。教員の労働環境に対する世間の無関心さを放置してきたが故の「精神疾患を理由に休職した教員は過去最多」ですから。水俣の話は第三章に出てきて、次のようにあります。

 

私自身、環境問題はシステムが問題だと指摘してきたが、長年の体験から紡がれる緒方さんの言葉の重みを前に、「問うだけの側」に安住している自分の軽薄さが耐えられなくなった。

 

 教育問題もシステムの問題です。教員のなり手が少なくなっているのも、精神疾患の教員や児童・生徒の不登校が過去最多となっているのも、現場への「想像力欠乏症」に罹った為政者サイドの問題でしょう。備忘録にも書きましたが、斎藤さんは「日本の教育システムは為政者にとって本当に都合のいいものになっている」と言います。ウーバーにとって、チッソにとって、と同じです。だからこそ斎藤さんのように発信力のある思想家が「問うだけの側」に安住することなく、扱いにくい現場に足を運んでくれるのは嬉しい。現場を「知った側」の責任として、一緒に答えをつくっていく活動に力を注いでくれるかもしれないからです。

 

www.countryteacher.tokyo

 

 ウーバーやシカ、水俣以外にも、テレワークや脱プラ生活、福島など、多種多様な現場が紹介されています。冒頭の引用は「学び、変わる 未来のために」(あとがきに代えて)からとりました。《実際やってみると楽しいこともたくさんある》って、私もそう思うので、

 

 次の現場は小学校へ。

 

 ぜひ。