盛り上がった#教師のバトン プロジェクトもいずれブームは過ぎ去る日が来るだろう。しかし、それでも教師が情報発信することの意義は、日本が成熟した民主主義社会を指向する限り消えることはない。教育公務員として、必要以上に政治的中立性が求められ、地域社会から厳しい監視の目に晒されているのが現在の教師の偽らざる実情であろうが、このような現状は健全な民主主義の実現にとっても、子どもたちへの教育効果を考えても、有害でしかない。
(内田良、斉藤ひでみ、嶋﨑量、福嶋尚子『#教師のバトン とはなんだったのか』岩波ブックレット、2021)
こんばんは。1年前の12月と同様にブログの更新が滞ってしまいました。今年も「通知表の所見」が原因です。ついでにいえば、先週、先々週と立て続けにあった「振替休日なしの土曜授業」も原因です。日教組が今年の夏に行った調査によると、小学校の教員の実質的な時間外労働の平均は月あたり90時間16分とのこと。半数以上の教員が過労死ラインを超えて働き、死と隣り合わせの状態で教壇に立っているということです。このような現状は健全な民主主義の実現にとっても、子どもたちへの教育効果を考えても、有害でしかありません。
これで平均という……。https://t.co/XskWEb1ZQ6
— CountryTeacher (@HereticsStar) December 17, 2021
なぜこんな状況(社会問題)が放置されているのでしょうか。ヨーロッパだったら「人権侵害」になるのではないでしょうか。残念ながら、民主主義の成熟も、健全な民主主義も、ほど遠いと考えざるを得ません。官製ハッシュタグ「#教師のバトン」が大炎上したのも、その未熟さと不健全さのあらわれでしょう。
#教師のバトンとはなんだったのか。
発信します。
内田良さん、斉藤ひでみさん、嶋﨑量さん、福嶋尚子さんの『#教師のバトン とはなんだったのか』を読みました。副題は「教師の発信と学校の未来」です。文部科学省が立ち上げた「#教師のバトン」というのは、簡単にいえば以下のようなエピソードを募って教職の魅力を向上させ、教師のなり手を増やそうという目的をもったプロジェクトです。
卒業文集(6年生)を書いていたら感極まって泣きはじめた子がいてあっという間に他の子にも伝染して、疲れ果ててはいたものの「教師のやりがい」に呑まれた金曜日の6時間目でしたφ(..)#教師のバトン
— CountryTeacher (@HereticsStar) December 3, 2021
しかし実際に集まったのは「隣の初任の先生が20時過ぎに突然泣き出した」や「初任講師で残業200時間越え」などの悲鳴ツイートばかり。私もバトンを落としそうな旨、ツイートしました。
おはようございます。疲れがたまって「#教師のバトン」を落としそうです。昔、ヤマザキマリさんはイタリア人のパートナーに「明らかに労働法に違反しているのに、言うなりになって、我慢して働き続ける方がおかしい。キミのそういう姿勢が社会をダメにする」と言われたそうです。職種は違えど正しい。
— CountryTeacher (@HereticsStar) May 26, 2021
もしかしたら文部科学省の官僚さんたちはこうなること(大炎上)を予想していたのではないか。予算を獲得するために現場の惨状を世間に伝えたかったのではないか。教育用語でいうところのヒドゥン・カリュラム的な憶測が飛び交うくらい、現場の教師は「#教師のバトン」のオフィシャルな目的に絶望していました。
殿、ご乱心でござる。
現場を代表して、現職教員の斉藤ひでみさんは「はじめに」に《#教師のバトン 騒動をきっかけに、今あらためて教師を巡る状況と教師自身が発信することの意味を問い直していただければ、執筆者一同これ以上の喜びはない》と書きます。「はじめに」に続く目次は以下。
第1章 「魅力の向上」がもたらした大炎上
第2章 なぜ教師は本音を言えなかったのか
第3章 法的障壁はそもそも存在しない?
第4章 もの言わぬ教師はいかにつくられたのか
第5章 未来へのバトン
第1章と第5章を大学教員(専門は教育社会学)の内田良さん、第2章を斉藤ひでみさん、第3章を弁護士の嶋﨑量さん、そして第4章を大学教員(専門は教育行政学)の福嶋尚子さんが担当しています。
冒頭の引用は第3章からとったもの。本書の白眉ともいうべきこの第3章には、教師によるSNSの発信に「法的障壁」は存在しないし、むしろ積極的な意義があるということが書かれています。
どのような意義があるのか。
嶋﨑さんは「表現の自由」を根拠にその意義を説きます。憲法学者の奥平康弘さん(1929-2015)が憲法の中核と位置づけていた「表現の自由」です。もしも教師が本音を言えないままでいたら(第2章)、もしも教師がもの言わぬ教師のままでいたら(第4章)、教師が置かれている現状は市民に伝わりません。我が子の担任がいつ死んでもおかしくない状況にあるということも伝わりません。担任がメンタルをやられて休職を余儀なくされたとしても、その理由すら伝わりません。伝わらなければ、変わらない。変わらないまま教師が疲弊していくのであれば、それは子どものためにはならない。社会学者の宮台真司さんの言葉を借りれば、
「鍵のかかった箱の中の鍵」問題。
教師が発信しなければ、子どもたちにとっての小社会(=箱)は、いつまで経ってもブラックボックスのままというわけです。その箱を開けるための鍵となったのが「#教師のバトン」。だからやはり文部科学省のねらいはパンドラの箱を開けることにあったのではないかと思いたいのですが、実際のところはどうなのでしょうか。
このように考えると、教師が情報発信することは、子どもたちへの教育効果の側面や、主権者である市民が政治参加する際の前提となる社会基盤を確保するという二つの側面から、単なる「権利」を超えた社会的な「責務」があるともいえるだろう。
内田さんが書いている第5章の「未来へのバトン」にも《#教師のバトン は、「声をあげる」ことの大切さを私たちに教えてくれた》とあります。幸いなことに、私たちには「斉藤ひでみさん」という、国会でも声をあげた優れたロールモデルがいます。だから声に出して叫びたい。来たるべき民主主義のために叫びたい。通知表の所見は年に1回でいい。土曜授業なんて要らない。
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