これはたんなる比喩であろうか? 中卒者を「金の卵」とよぶとき。それはだれの、どのような期待を反映しているか? いうまでもなく、それは彼らが、雇用者たちにとって、下積みの安価な労働力として貴重品であることを示す。鎌田忠良氏が的確に指摘するように、「〈素朴〉で〈仕事熱心〉で〈ネバリ強い〉」地方出身の「勤労青少年」の像、この像に合致するふるまいを当然のこととして期待し要求する暗黙の視線、これこそが「金の卵」という表現の現実的な意味である。それはこのような青少年の、階級的な対他存在に他ならない。
(見田宗介『まなざしの地獄』河出書房新社、2008)
こんにちは。運動会が終わり、教育実習生が去り、研究授業が終わり、そして関係ないけど2つのツイートが「お疲れさま」の祝砲のごとくバズり、1学期の峠を越えた感があります。
教育実習生とのお別れ会のときに、普段あまり目立たない子が泣いていたのは、手のかかる子に偏りがちな教師の関心が分散したから。手のかからない子の中には「私のことも見て」と思っている子が必ずいる。実習生がそういった子に何度も声をかけてくれた結果としての涙。現状でさえ教員不足ということ。
— CountryTeacher (@HereticsStar) June 4, 2022
コロナ禍で縮小した運動会を元に戻してほしいという要望がある。保護者は恐らく元の運動会が教員の膨大なただ働きで成り立っていることを知らない。縮小した運動会ですら勤務時間内には収まらない。管理職はそのことを説明すべき。応援団もリレーも練習は全て課外だ。授業準備なんてできるはずもない。
— CountryTeacher (@HereticsStar) June 7, 2022
峠は越えたものの、この後も個人面談であったり、通知表の作成であったり、勤務時間内に授業準備をする時間はゼロという状況、否、マイナスという労基法的にイリーガルな状況が当たり前のように続きます。冒頭の引用をもじれば、明日以降も定額働かせ放題の安価な労働力として「聖職」の名に恥じぬふるまいを当然のこととして期待し要求してくる暗黙の視線、すなわち「まなざしの地獄」に堪えつつ働かざるを得ないということです。
個人面談をするのであれば、通知表の所見は書かなくてもいいのではないか。
そういった至極当然の疑問さえ他者たちのまなざしの罠によって封じ込められてしまうのは、かつての「金の卵」たちが《「やる気をもった家畜」として忍耐強く働く〈若年労働者〉》としての立ち位置を強いられ、尽きなく生きるという欲望を封じ込められてしまった状況と同じかもしれません。教員を「聖職」とよぶとき、それはだれの、どのような期待を反映しているか?
いうまでもなく……。
見田宗介さんの『まなざしの地獄 尽きなく生きることの社会学』を読みました。19歳のときに連続ピストル射殺事件を起こし、その後獄中で小説家となった永山則夫(1949ー1997)のライフヒストリーを手がかりに、60~70年代の日本社会の階級構造、及び個人の生の実存的な意味を浮き彫りにした論考です。合わせて、永山が呪った「家郷」を主題とした論考「新しい望郷の歌」も収録。
永山はどのような時代を、どのような想いをもって生きていたのか。
永山という極端な例(極限値)を通して、そして極限値と統計的事実(平均値)の隙間を埋める見田さんの《名人芸的な手さばき》を通して、当時の社会と個人の関係がクリアカットに伝わってくる一冊です。さらに、解説を書いている弟子の大澤真幸さん曰く「今の若い人が読んでも、わかる、この気持ちは(!)というものをもっているから、是非読んでください」云々。まなざしの地獄は、かたちを変え名を変えて、今も続いているというわけです。
「金の卵」ともてはやされた永山世代が、根をもつことも翼をもつこともできず、冒頭の引用に示したような「まなざしの地獄」に苦しんだのと同様に、現代の若者もまた、別の類いの「まなざしの地獄」に苦しんでいるというのが大澤さんや同じく見田さんの弟子にあたる宮台真司さんの見立てです。宮台さん曰く、
田舎から出てきてブルーカラーである自分が苦しいというのが昔の「まなざしの地獄」だとすると、周りに合わせないと、或いはキャラを演じないと、KYっていうふうに見えないようにしないと苦しい、というのが今の「まなざしの地獄」。キャラを演じながらみんなとトゥギャザーでいる。それはどう考えても寂しい。寂しさ、すなわち孤独は辛い感情なので、人は認めたくない。自分は幸せだ。みんなと一緒にいて尊敬もされている。だから自分は問題ない。人はそう思い込もうとする。でもそれは、最近の若い人たちを見ていても思うけど、間違っている。
学校が「まなざしの地獄」と化しているということでしょう。我が子を見ていてもそう思います。そして、学校化する社会も、学校と同様に「まなざしの地獄」と化している。おそらくは文化人類学者の磯野真穂さんいうところの「ダイエット幻想」もそういった地獄のひとつです。
まなざしという名の幻想。
では、まなざしの地獄やまなざしという名の幻想から逃れる術はあるのか。宮台さんは次のように述べています。
見田先生はもちろん逃れられると考えている。そのためには知性が必要だと考えている。ここでいう知性とは、近代の合理性の枠の中で記述できる言語的な明晰さではないような、言語外的な全体性につながるような別の明晰さのこと。それを伝えようとされているし、伝わると彼は確信している。
宮台さんがよくパラフレーズして書いたり話したりしていることなので、伝わります。見田さんの『宮沢賢治』にも同様のことが書いてあります。
まなざしの地獄から逃れるべく、存在の祭りの中へ。
でも、ハードルが高いなぁ。月の残業が平均で80時間を超えている小学校の教員には難しいなぁ。永山が獄中でようやく得ることができたという「落ち着ける場所」と「自由な時間」を確保できない限り、すなわち「考えられる時間」を確保できない限り、必要とされる知性も明晰さも得られるとは思えません。だからやはり、
教員にも子どもにもゆとりを。
まなざしからの解放を。