僕は教師という職業が大好きで、現実に教壇に立っていらっしゃるすべての皆さんに、ありったけの敬意と共感を示したいと、いつも思っている。けれど、僕は同時に、教師とうまくやっていけない生徒のことも大好きで、もしも彼らが落ち込んでいるのなら「先生なんて放っときゃいいんだよ」と肩を叩いてやりたいと、いつも思っている。矛盾である。
(重松清『せんせい。』新潮文庫、2011)
こんばんは。たとえ矛盾であったとしても、現実にお子さんを学校に通わせているすべての保護者の皆さんが、ありったけの敬意と共感を教師という職業に示してくれたとしたら、或いは「先生なんて放っときゃいいんだよ」という、無礼でも反感でもない、ノン・ジャッジのスタンスをとってくれたとしたら、教員不足なんてあっという間に解決すると思うのですが、どうでしょうか。教員不足だけでなく、学校で起きている様々な問題も、だいぶ解消されるはずです。
先日、授業でコラボしている先輩(もと社長さん)とタイ料理を食べてきました。曰く「美味しいタイ料理を探し歩いて30年」という先輩のイチオシのお店です。で、高校の遠い同窓であり大学の遠い同窓でもある先輩の話を聞きながら、冒頭の一節を思い出したんですよね。重松清さんの『せんせい。』に収録されている「文庫版のためのあとがき」からの引用です。先輩は、我が子の担任の先生に「信頼しています」というメッセージを毎年送っていたといいます。そうすることが、子どもにも先生にも世の中にもポジティブな変化をもたらすだろう、と。そんな保護者が一人でもいれば、
せんせいは、がんばれるはず。
重松清さんの『せんせい。』を読みました。学校を卒業したかつての教え子と「せんせい。」とのその後の交流を描いた5編と、いじめられている小学5年生の女の子と保健室の「せんせい。」との交流を描いた1編(ドロップスは神さまの涙)から成る一冊です。タイトルは以下。
白髪のニール
ドロップスは神さまの涙
マティスのビンタ
にんじん
泣くな赤鬼
気をつけ、礼
贈与という補助線を引きたくなる物語ばかりでした。『世界は贈与でできている』の著者である近内悠太さんいうところの贈与です。近内さん曰く《贈与は、受取人の想像力から始まる》&《贈与の受取人は、その存在自体が贈与の差出人に生命力を与える》。
受取人=児童生徒。
差出人=せんせい。
例えば「白髪のニール」。
かつての「せんせい。」が市長選に立候補するらしい。僕は高校生だったときに、その「せんせい。」に「ギターの弾き方を教えてくれ」と頼まれ、夏休みの間、教えた。そういった設定の物語です。
僕たちにニール・ヤングを初めて聴かせてくれたあの日、先生は確かに言っていたのだ。歳をとることがロックだと。ニール・ヤングはそれを歌ってくれていたんだと。
45歳になった僕が、贈与の流れに気づく場面です。あのとき先生が言っていたのはこのことだったんだ(!)という、想像力から始まる気づきって、贈与の典型ですよね。先生のところを両親や上司に置き換えても構いません。ちなみにここでいう贈与の流れは「ニール・ヤング → 白髪のニール(せんせい。) → 僕たち → 読者」です。贈与は必ずプレヒストリーをもつことから、ニール・ヤングも誰かから贈与を受け取ったのでしょう。いま私がこのブログを書いているのも、差出人になるためかもしれません。
例えば「マティスのビンタ」。
タイトルからも想像できるように、ビンタした「せんせい。」と、ビンタされた教え子との現在と過去を描いた物語です。マティスというのはもちろん画家のアンリ・マティスのこと。授業そっちのけで画家になる夢を追いかけていた「せんせい。」に、反抗心を抱いた中学生の私が、あるとき、あることをきっかけに、思いっきり右頬をぶたれるんですよね。
ただひとつ、いまの私がその場にいたなら ―― もう一発、中学生だった私の右頬をぶっていただろうな、という気はする。
40代の半ばを迎えた私が、現在はグループホームに入っているマティス「せんせい。」のもとを訪ねたことをきっかけにして、かつてのビンタを贈与として認識し始めるくだりです。ビンタはちょっとあれですが、子どもに対する強い叱責も、後々贈与に変わるかもしれないということでしょう。そう思えれば、少しだけラクになれるような気がします。この職業、叱責ゼロというわけにはいきませんから。タイムラグはあれど、
叱責も、やがて贈与に。
最初の話に戻れば、ちゃんと叱責できるかどうかは、保護者の「信頼しています」にかかっています。信頼関係がなければ、叱責もできません。だから「信頼しています」って、そのメッセージ自体が贈与だなって、そんなふうにも思います。
贈与は、受取人の想像力から始まる。
おやすみなさい。