田舎教師ときどき都会教師

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五木寛之 著『こころの散歩』より。結局、人。やっぱり、生き方。

「ヒゲダン」というバンドがいま人気絶頂だという記事が出ていた。正確には「Official 髭男 dism」というグループらしい。この「ヒゲ」という字がどうしても書けない。
 電子辞書を引くと、〈「髭」は口ひげ、「鬚」はあごひげ、「髥」はほおひげ、総称として「髭」を使うことが多い〉とある。
 今日のノルマは「ヒゲ」にしようと決める。何度も何度も書いてみるが、三十分たつとすぐ忘れてしまう。
(五木寛之『こころの散歩』新潮文庫、2024)

 

 こんばんは。人気絶頂ではないときに「ヒゲダン」のファンになり、こころの散歩がてらライブにもしばしば足を運んで、最前列のど真ん中で観たこともあったのに、あれから幾星霜、今や抽選の倍率が高すぎてチケットをとることすらできず。

 

 あれから幾星霜。

 

 念のために書いておくと、幾星霜とは「いくせいそう」と読み、検索すると《「幾星霜」とは長い年月という意味で、その中でもその時を待ち望んでいたり、なにかに耐え忍んでいたりなどの理由で、その時が来たことに感慨を覚えているニュアンスを含む言葉》と出てきます。同じ長い年月でも、御年92歳の五木寛之さんが使う「幾星霜」と、私が使う「幾星霜」とでは、ニュアンスが大部異なりますが、異なりすぎて使い方が間違っているかもしれませんが、本日、兎にも角にもその時が来たんです。

 

 いざ、横浜へ!

 

日産スタジアム(2025.6.1)

 

 久し振りの髭男のライブ。最前列ではなく、直前機材席開放販売(先着)ってやつですが、髭男仲間がチケットをとってくれて、

 

 嬉しい!

 

終了(2025.6.1)

 

 久し振りに大好きな「ブラザー」を聴くことができて、大好きな「異端なスター」も聴くことができて、夢のような夜でした。しかも、今日のライブ(ツアーファイナル)は今秋映画になるそうで、それもまた夢のようだなと。明日、クラスの子どもたちに自慢しようと思います。

 

 

 五木寛之さんの『こころの散歩』を読みました。エッセイ『僕はこうして作家になった』と『みみずくの夜メール』を久し振りに読み返したところ、最近のエッセイも読みたくなってのチョイスです。

 冒頭の引用は「髭という字が書けなく」より。髭男のライブに行く当日に、髭男のことが書かれたエッセイを目にするなんて、しかも五木さんが髭男のことを書いているなんて、

 

 びっくり。

 

 

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 さて、今朝おぼえた「髭」をどうおぼえようか。などと考えながら不用不急の日々をすごしている。

 

 あっ、不要不急が不用不急になっている。弘法にも筆の誤りではなく、これで合っているのでしょう。Grokに尋ねたところ、不要不急は《 必要性も緊急性もないこと。現代ではこちらが標準的な表現》で、不用不急は《 ほぼ同義だが、「無駄」というニュアンスがやや強く、古風な印象》とのこと。

 

 古風な印象。

 

 五木さんが『こころの散歩』の中で2回使っている《それから幾星霜》も、古風に思えます。

 

 それから幾星霜。

 

「大丈夫かい。もう締め切り過ぎてるんじゃないのかね」
 などと、書き手のほうが心配するようなケースもあった。とりあえず、古き良き時代の思い出である。
 それから幾星霜。
 最近は締め切りについての話題がほとんどきこえてこない。

 

 五木さんが生きてきた長い年月を巻き戻したときの記憶と、「それから幾星霜」が紐帯となって結び付けている現在のことが、相照らすように綴られているところに『こころの散歩』の魅力があります。

 

 野坂昭如がいる、ということで私は仕事を続けてくることができたとあらためて思う。
 そういう存在にめぐまれたことは、私の幸せであった。彼と反対の方向へ歩いていけばいいのだ、と自分に言いきかせていたからである。
『骨餓身峠死人葛』『あゝ水銀大軟膏』などなど、往事の彼の傑作の題名が、走馬灯のように頭の奥を通りすぎる。野坂昭如ノー・リターン。

 

 これも「相照らす」でしょう。マルティン・ブーバーでいえば『我と汝』であり、わかりやすくいえば、二人の村上こと村上春樹と村上龍です。

 

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 過去(記憶)と現在の「相照らす」に加えて、五木さんと交流のあった作家とのエピソードがたくさん紹介されているところも『こころの散歩』の魅力です。そのことは解説を担当している南陀楼綾繁さん(なんだろうあやしげ、と読むようです。)も書いています。南陀楼さんと五木さんとのエピソードもいつか読みたい。

 

 結局、人。

 

 

 野坂昭如を始め、松本清張とか井伏鱒二とか三島由紀夫とか石原慎太郎とか新井満とか吉行淳之介とか、その他もろもろ聞いたことのある人も寡聞にして知らない人もたくさん出てきます。年齢を重ねたときに思い出すのは、やっぱり「人」とのかかわりなのでしょう。

 

 やっぱり、生き方。

 

 ノスタルジーは、生きるエネルギーである、というのが最近の私の説なのだ。

 

 五木さんの説に似たものとして、村上春樹さんに《でもたしかにいろいろと大変ではあるのだけれど、人を恋する気持ちというのは、けっこう長持ちするものでもある。それがかなり昔に起こったことであっても、つい昨日のことのようにありありと思い出せたりもする。そしてそのような心持ちの記憶は、時として冷え冷えとする我々の人生を、暗がりの中のたき火のようにほんのりと温めてくれたりもする》(『愛しくて』のあとがきより)という説があります。村上さんの場合は「恋愛」のことですが、ノスタルジー ≓ エネルギー ≓ 「結局、人」という意味では同じなのではないでしょうか。

 

余韻に浸る(2025.6.1)

 

 友人が運転する車の助手席にて、ライブの帰り道にこれを書いています。横浜は遠すぎました。6月の第一週は、寝不足からのスタートになりそうです。でも、生きるエネルギーをもらえたから、よい。とりあえず今週は、髭男の曲に倣って、

 

 50%で生きます。

 

 おやすみなさい。