田舎教師ときどき都会教師

読書のこと、教育のこと

横道誠、菊池真理子、二村ヒトシ 著『「ほどよく」なんて生きられない』より。過去は、エンジンになる。

 橋本治に関して思ったのは、橋本さんもものすごい量の本を刊行したじゃないですか。ああいう度を超えたクリエイティビティって、私はなんとなくわかる気がするんですよね。つまり、トラウマがエンジンになっているんじゃないかなと思うんです。
(横道誠、菊池真理子、二村ヒトシ『「ほどよく」なんて生きられない』明石書店、2025)

 

 こんにちは。あっという間に光り輝く週の最終日です。4月のあのトラウマレベルのストレスフルな忙しさに対して、土日月火の4連休では少なすぎるのではないでしょうか。こんな状態では「ほどよく」なんて生きられません。ストレスを緩和すべく、昨夜、

 

 酔り道。

 

 いわゆる「コーピング」ってやつです。えっ、コーピングを知らない(?)。コーピングというのはストレスに対処するための意識的な行動やプロセスを指す言葉で、例えば次のように使います。冒頭の引用は横道誠さんの、以下の引用は二村ヒトシさんの発言より。

 

 依存性ある嗜癖でコーピングしていることと、病気としての依存症との違いは非常にあやふやですが、橋本治も横道誠も、大量に書くことは依存症ではなくコーピングなんだろうって思いますよ。

 

 コーピングとしての酔り道。

 

酔り道(2025.5.5)

過去に囚われず(2025.5.5)


 あっ、而今がある。

 

 たまたま入った居酒屋に思いがけず而今も寫樂も田酒もあって、而今の生みの親である大西唯克さんが言うように《今をただ精一杯生きる》ことができました。難しいのは《過去に囚われず》というところ。過去のトラウマがエンジンになることもあるからです。文学研究者の横道誠さんしかり、漫画家の菊池真理子さんしかり、AV監督の二村ヒトシさんしかり。3人の鼎談を一冊の本にまとめた『「ほどよく」なんて生きられない』を読むと、そのことがよくわかります。

 

 

 横道誠さんと菊池真理子さんと二村ヒトシさんの『「ほどよく」なんて生きられない』を読みました。サブタイトルは「宗教2世、発達障害、愛着障害、依存症、セックス、創作活動をめぐる対話」。裸になれないという「共通の悩み」を抱えている菊池さんと二村さんが、《横道さんと話したらつられて俺たちも脱げるかもしれない》&《横道さんお話しよー》と思いつき、ここ数年自分をさらけ出しまくっている(ように見える)素っ裸の横道さんに対話を申し込んだというのがこの本の生まれた経緯だそうです。裸というのはもちろん比喩であって3、おっと。以下、目次です。

 

 Prologue 菊池真理子
 Part1 私たちが育った機能不全家庭
 Part2 宗教2世問題
 Part3 発達障害・愛着障害・依存症
 Part4 創作の中で表れる問題
 Epilogue 菊池真理子

 

 エピローグの後に二村さんによる「対話のあとに」が収録されています。これがまたとてもいい。ちなみにプロローグとエピローグは漫画です。これもまたとてもいい。まぁ、全部「とてもいい」のですが、まずはここを読んでほしいというのが、そして小学5・6年生や中学生くらいの児童・生徒にも聞かせたいうのが、Part1の「私たちが育った機能不全家庭」です。3人の生い立ちが描かれていて、冒頭に引用した《トラウマがエンジンになっているんじゃないかな》という横道さんの言葉にリアリティーをもたせてくれるからです。言い方を変えると、たとえ機能不全家庭で育ったとしても、その後どうなるかはわかりませんよ、と児童・生徒に説得力をもって伝えられるからです。しんどい過去が、しんどい現在やしんどい未来を生むわけでは、ない。しんどくない過去がしんどくない現在やしんどくない未来を生むわけでも、ない。人生はそんなに単純じゃ、ない。二村さんとの共著がある社会学者の宮台真司さんの言葉を借りれば《教員の意図や親の意図の貫徹という意味での教育の成功は、教育の失敗であるという逆説》だって、ある。

 

 私が非常によく覚えているのは、小学1年生のときに、学校の担任の女の先生に顔を殴られて、私は泣きじゃくりながら家に帰ってきたんですね。鼻血がいっぱい出てきたんですけど、母はその先生のことが非常に立派で指導熱心だと褒め称えていました。

 

 Part1の「私たちが育った機能不全家庭」に書かれている「横道誠さんの場合」より。しんどい。

 

 アトピーがあって挙動はADHD的ですから、いじめられはしました。慶應の小学校と中学校、今はわからないですけど僕がいた頃は結構ひどいいじめがあった。

 

 Part1の「私たちが育った機能不全家庭」に書かれている「二村ヒトシさんの場合」より。いじめられはしたものの、うまく生き延びることができたそうですが、しんどい。

 

 一方で母は追い詰められていました。父のお酒と、人間関係と、プレッシャーばかりかけてくる創価学会に。結局、母は私が14歳のときに自死してしまいました。

 

 Part1の「私たちが育った機能不全家庭」に書かれている「菊池真理子さんの場合」より。しんどいどころではないくらい、

 

 しんどい。

 

 そんな機能不全家庭に育った3人が、「ほどよく」なんて生きられないという3人が、その後どのようにして生きてきたのか。トラウマをどのようにしてエンジンにしてきたのか。どのような過去が、すなわちどのような教育が、エンジンになり得るのか。教員のみなさん、保護者のみなさん、ぜひ手にとって読んでみてください。

 

コーピングとしての日本酒(2025.5.5)

 

 今日は朝から雨が続いています。晴耕雨読。コーピングとしての読書には「ほどよい」祝日です。あっ、今、哲学対話(道徳の授業等)で話し合いたい「問い」を思い付きました。「ほどよく」生きられる人生と、「ほどよく」なんて生きられない人生と、

 

 どちらがいいのか。

 

 種々考える。