田舎教師ときどき都会教師

読書のこと、教育のこと

島田潤一郎 著『古くてあたらしい仕事』より。島田さんはきっと、ヨクミキキシワカル人。

 そういう日々が続くと、出勤と同時に上司に呼び出され、説教をされるようになった。ぼくの営業成績は部内でも一、二を争うくらいの数字だったが、毎日のように怒られた。
「みなと同じようなスタイルで仕事をしなさい」
 上司がいいたいのは、結局、そういうことのように思えた。
(島田潤一郎『古くてあたらしい仕事』新潮文庫、2024)

 

 こんばんは。目的をそろえるのは構いませんが、手段をそろえるのは構いませんの反対です。だから「みなと同じようなスタイルで授業をしなさい」っていうタイプの校内研究が好きではありません。授業の終わりには必ずこのカードを使ってめあてが達成できたかどうかを子どもたちに訊ねましょう、とか、ICTを活用する場面を必ず入れましょう、とか、自由進度学習をしましょう、とか。そのスタイルがいいと思ったらケースバイケースで勝手に真似するので、放っておいてほしい。それに、大変な学年や大変なクラスをもたせておいて一律のスタイルを強制って、

 

 おかしくないですか?

 

 過去二十数年、曲がりなりにも学年&クラスを安定したかたちで経営できてきたのは、借りものではなく、自分自身のスタイルだったからですよって話です。先人に倣えば、黒猫だろうと白猫だろうと鼠を捕るのがよい猫ですよっていう話です。それに、児童・生徒に対しては「『個別最適な学び』と『協働的な学び』の一体的な充実」を掲げているのに、教員にはスタイルの強制って、何だそのダブルスタンダードは(?)と思います。教員の裁量を減らしてしまうような研究に時間をかけているから、職員室の雰囲気が悪くなって、協働的な学びとは真逆のことが起きるのでは(?)とも思います。

 

 まぁ、愚痴です。

 

協働的な学び(2025.5.26)

 

 先日、30代のクレバーな大学の先生と、就職氷河期世代の私と、過労死をなくしたいと願う50代の女性の3人で愚痴を言いつつ、これぞ「『個別最適な学び』と『協働的な学び』の一体的な充実」だ(!)という時間を過ごしました。楽しすぎました。楽しかったことは伝えたくなるものです。クラスの子どもたち(小学3年生)にも問いを交えながらそのときの話をしました。

 

 例えばこんな問い。

 

 仕事も年齢も異なる3人が知り合ったのは、みなさんの周りにもある、あるモノのおかげです。ずばり、それは何でしょう。ヒントは、漢字一文字、しかも1年生のときに習った漢字一文字で表せるモノです。正解は、あっ、いま島田さんが言ってくれました、そうです、

 

 本です。

 

 

 いつか島田潤一郎さんにお会いすることができたら、子どもたちにまた言いたい。そうです、

 

 本です。

 

 

 島田潤一郎さんの『古くてあたらしい仕事』を読みました。本屋でたまたま手に取った本です。

 著者のプロフィールを見たところ、1976(昭和51)年生まれとあって、あっ、同じ就職氷河期世代だ、買おうかな、と。さらに目次を見たところ《本と本屋さんが好き》とか《教科書営業の日々》とか《一冊の本、ひとりの読者》とか、本にまつわるタイトルがずらっと並んでいて、あっ、同じ本好きだ、買おうかな、と。さらにさらに、何とはなしにあとがきを開いたところ、冒頭に《大学を卒業して間もないころ、バックパックひとつでアフリカを旅したことがあった》とあって、あっ、私の場合はアフリカじゃなくてインドだったけど、同じバックパッカーだ、

 

 買おう。

 

 同世代の、本好きで、バックパッカーだった人が、紆余曲折を経て、ひとりで出版社(夏葉社)を立ち上げ、エッセイまで書いている。購入せずにはいられません。

 

 ぼくは小説を書くことでは結果を出すことができなかったが、本を読むことに人生のあたらしい手応えを見出していた。

 

 エッセイ「本と本屋さんが好き」より。エッセイが本になっている時点で、もう十分に結果が出ているように思います。さらに、本を読むことの手応えが、本をつくることや書くことの手応えにつながっていったのだとしたら、それは前任校でやっていた「大人図鑑」(総合的な学習の時間)のゲストティーチャーとして教室で語ってほしいくらい素晴らしいプロセスであり結果であるように思います。さらにさらに、あたらしい上司と反りが合わなくてよかった(!)と思います。

 

 でも、ぼくはその会社をたった一年で辞めてしまった。理由は単純で、あたらしい上司と反りが合わなかったからだ。
 ぼくは一生懸命仕事をしたが、無駄なことはしたくなかった。

 

 エッセイ「教科書営業の日々」より。冒頭に引用した「みなと同じようなスタイルで仕事をしなさい」の上司です。

 島田さんは、1年間だけですが、教科書会社に勤めていたそうです。もちろん、夏葉社を立ち上げる前の話です。どうやって本を作ればいいのかという、出版社としてのビジョンは、そのほとんどが、教科書会社での営業経験からきていたとのこと。そういった意味では、「みなと同じようなスタイルで仕事をしなさい」の上司も、反面教師としてこの上なく優秀だったのだろうなと想像します。

 

 みなと違うようなスタイルで仕事をしなさい。

 

 しかし本の魅力はなにかと考えると、それは一言でいえば、多様性にあるのだから、ニッチな仕事というのも、読者からしてみればそれはそんなに悪いことではないと思う。

 

 エッセイ「一冊の本、ひとりの読者」より。人の魅力も、一言でいえば、多様性にあります。先生たちの魅力も同じでしょう。だからニッチな学級経営をする担任というのも、子どもたちからしてみればそんなに悪いことではないはずです。むしろ、

 

 悪いことの反対。

 

 島田さんが夏葉社でどのような違いを生み出しているのか、そのニッチな仕事ぶりを、ぜひ手に取って味わってみてください。

 

しめのパフェ(2025.5.26)

 

 そろそろしめです。

 

 島田さんの『古くてあたらしい仕事』には、エッセイが30編収録されいて、前半の15編には「だれかのための仕事」、後半の15編には「小さな声のする方へ」というタイトルがついています。同じ本好きとして、それらのタイトルとエッセイの内容から連想したのが、故・見田宗介の『宮沢賢治 存在の祭りの中へ』に出てくる次の一節です。

〈ヨクミキキシワカリ〉とは一般に頭のよさということではなく、吉本隆明がいうように弱いもの、小さいもの、醜いもの、卑しめられているものに向かう〈察知〉の能力である。それらのものの語られないことばをきく力、みえないものをみる力である。〈ワカル〉ということは、自我に裂け目をつくること、解放への通路をひらくことである。

 

 本をつくる出版という古くてあたらしい仕事にも、人をつくる学校の先生という古くてあたらしい仕事にも、この《ヨクミキキシワカリ》が必要です。島田さんはきっと、ヨクミキキシワカル人。

 

 サウイフモノニ、
 

 ワタシモナリタイ。