田舎教師ときどき都会教師

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辻仁成 著『冷静と情熱のあいだ Blu』より。果てないこの盤上でまた出会えるかな?

 それほど大きくない窓があった。室内が薄暗いせいで、外の光がハレーションを起こし、窓の枠がトンネルの出口のように見える。その先に広がる風景は、工房の作業場の小さな石窓から見えていた景色とも、アルノ川沿いのぼくの部屋の窓からの眺めとも違い、もっと平坦な印象の、箱庭的な距離感のない世界だった。
 梅ヶ丘・羽根木公園の小高い丘が眼前にある。学生時代の記憶と重なる懐かしい景色だったが、長くフィレンツェの石畳を見慣れてきたせいか、日本的な眺めに違和感を覚えてしまう。
(辻仁成『冷静と情熱のあいだ Blu』角川書店、1999)

 

 こんにちは。先週、学生時代の記憶と重なる懐かしい本を再読しました。辻仁成さんと江國香織さんによる往復書簡的な恋愛小説『冷静と情熱のあいだ』です。辻さんは男性の主人公・阿形順正の目線でかつての恋人あおいとの過去と自身の現在のストーリーを綴り、江國さんは女性の主人公・あおいの目線で順正との過去と自身の現在のストーリーを綴る。いわば、才能と才能のあいだに生まれた作品です。四半世紀振りに読み返したところ、再びはまってしまい、具体的には順正が学生時代を過ごした梅ヶ丘に行ってみたくなるくらいにはまってしまい、

 

 いざ、東京は梅ヶ丘へ。

 

梅ヶ丘駅(2025.6.21)

 

羽根木公園(2025.6.21)

 

順正が住んでいたかもしれない(2025.6.21)

 

 順正が住んでいたかもしれない、って勝手に想像できるアパートがいくつかありました。太陽の光を受け、羽根木公園には美しい緑色があふれていました。順正が《梅や桜が開花する三月や四月よりも、新しい葉が木々いっぱいに広がる五月の方が気持ちいい》と語っていた、美しい緑色。今は五月ではなく六月ですが、頭の中に自然と Official髭男dism の「Chessboard」が流れます。

 

 美しい緑色 こちらには見えているよ
 あなたが生きた証は 時間と共に育つのでしょう
 美しい緑色 役に立たない思い出も
 消したいような過去も いつかきっと色付くのでしょう

 そしてチェスボードみたいなこの世界でいつか
 あなたの事を見失う日が来ても
 果てないこの盤上でまた出会えるかな?
 その答えが待つ日まで 知らないままでただ息をする

 

higedan.com

 

 第90回NHK全国学校音楽コンクール中学校の部の課題曲としてつくられたという「Chessboard」。まるで順正とあおいのことを歌ったかのような歌詞だなぁと思います。チェスボードみたいなこの世界でいつか、「いざ、梅ヶ丘へ」ではなく、

 

 いざ、フィレンツェへ。

 

 

 辻仁成さんの『冷静と情熱のあいだ  Blu』を再読しました。辻さんの作品を読み返すのがここ数ヶ月のマイブームで、エッセイに始まり、最近は小説へ。四半世紀くらい経ってから読み返すと、ちょうどいい感じで忘れていて楽しめるというのが、マイブームの中で得たマイディスカバリーです。あの頃、順正もあおいも、それから私も、

 

 二十代だった。

 

www.countryteacher.tokyo

 

 学生時代に付き合っていた順正とあおいが、ある悲しい出来事を機に別れ、5年後の今はそれぞれ別の恋人(芽実、マーヴ)と付き合っているというのが、チェスボードみたいな世界観をもつ『冷静と情熱のあいだ』の初期設定です。

 

 舞台はイタリア。

 

 順正はフィレンツェで絵画の修復士として働き、あおいはミラノにあるジュエリー屋で売り子として働いています。王様もいないこの盤上で、二人はまだそれぞれに与えられた役割をよくわかっていないし、別れてしまってからは連絡を取っていないことから、二人が偶然にも同じ国に住んでいることすらわかっていません。

 

 過去が大きすぎて、或いは残酷すぎてというべきか、ぼくの心はなかなか現実に着地することができないだけだ、と自己分析する。あおいとの日々が生々しかっただけに、ぼくはその亡霊のような過去に縛り続けられている。

 

 幸せと悲しみの市松模様を過去に抱え、順正は現在、行ける場所、行けない場所、目指すべき場所を知らないままで息をしているというわけです。大きな歩幅で、ひとっ飛びのナイトやクイーンみたいになれる日ばかりじゃないことを知った、順正。そんな順正が、冷静に自己分析をしている順正が、帰るべき場所としてたったひとつだけ胸に抱いている未来があります。情熱が先行していた学生時代に交わした、あおいはもう忘れているかもしれない、

 

 あの約束。

 

 あのね、約束をしてくれる?
 どんな?
 私の三十歳の誕生日に、フィレンツェのドゥオモのね、クーポラの上で待ち合わせをするの、どお?

 

 完璧な設定です。

 

 綿毛みたいに風に任せ、飛ぶことができた学生時代に、空中からじゃ見落とすような小さな1マスであおいに会えた。そのときに交わしたたったひとつの約束によって、かろうじてゲームが続いているように思える。このフィールドで今度はどんな事が待ち受けているのだろう。

 物語にもなるし、歌詞にもなる、阿形順正という男性の人生。では、女性であるあおいの目線からは、チェスボードみたいなこの世界は、

 

 どう見えているのか?

 

 

 不意に誰かが隣に来て、風が吹けば離れ離れになって、繰り返す不時着の数だけ増えていくメモリー。この本に出会ってから約四半世紀。増えたメモリーのせいでしょうか、順正とあおいのあいだにいる芽実やマーヴの目線からはチェスボードみたいなこの世界はどう見えていたのかが気になった読後感でした。言い換えると、不意に隣に来たあなたは、チェスボードみたいなこの世界をどう見ていたのか。

 

 果てないこの盤上でまた出会えるかな?

 

 その答えが待つ日まで、知らないままでただ息をする。