花屋の開いている時間に、八百屋の開いている時間に、本屋の開いている時間に、たまたま帰ることのできたあなたが文庫本になったこの本と出会い、仕事用の鞄にすっと入れたまま、読めたり読めなかったりしたらいいな、と思う。
(くどうれいん『虎のたましい人魚の涙』講談社文庫、2024)
こんばんは。先週末、Tully's の開いている時間に、たまたまではなく計画的に帰ることができて、今週もハードだったなぁと思いながら、仕事用の鞄に入れていたくどうれいんさんの文庫本『虎のたましい人魚の涙』を読んだり撮ったりしました。
参議院議員会館の中にある Tully's にて。
くどうれいんさんの『虎のたましい人魚の涙』読了。あとがきに《押し流される日々に毎月必ず一度エッセイを書くことで、ようやくそのひと月の自分を杭として立てられているような気がした》とあり、毎週金曜日に出している学級通信と同じ感覚だなと思った。ようやくの金曜日。今週も頑張った。#読了 pic.twitter.com/VOE1MsGf1T
— CountryTeacher (@HereticsStar) May 23, 2025
参議院議員会館に足を運んだのは、友人が報告者の一人を務める「給特法改正案を考える院内集会」に参加するためです。先着25名の枠に飛び込むべく、
いざ、東京へ。
年休を大胆に駆使しただけあって、参加希望者(一般人)の中で一番乗り。報告者はすでに参議院議員会館のゲート前に集合していて、うわ~、西村祐二さんだぁ、本田由紀さんだぁ。
給特法改正案を考える院内集会に参加した。弁護士の嶋﨑量さんや大学教授の本田由紀さん、国会議員の大石晃子さんなど、小中の教員でもないのに怒り心頭といった感じだった。Teamsがあると家でも仕事ができて便利、とか無邪気に言ってる場合ではないと思う、教員は。何が在校等時間だ、って怒るべき。
— CountryTeacher (@HereticsStar) May 23, 2025
大石議員「義務標準法を改訂して小学校は1.5倍、中学校は1.2倍教員を増やさないとダメ」、早稲田大学名誉教授の油布佐和子さん「教員の長時間労働は国が本腰を入れない限り変わらない」、現職教諭の西村祐二さん「教員の労働時間の実態調査をやりたくないのは文部科学省、現場はやってほしいのに」。
— CountryTeacher (@HereticsStar) May 23, 2025
集会が始まる直前に、議員バッチを付けている二人の女性、大石あきこ議員と吉良よし子議員がテーブル席の目の前に座ってきて、うわ~、大石議員だぁ、吉良議員だぁ。その後、お二人とも反対側のテーブルに移動してしまいましたが、そして吉良議員のことは「うわ~」とか言いながら知りませんでしたが、大石議員も吉良議員もその発言内容と行動力からして「虎のたましい人魚の涙」をもっているな、と。言い換えると、虎のようなたくましさと人魚のようなやさしさをもっているな、と。
【2025/5/9文科委員会(給特法)総理へ質問】れいわ新選組、大石あきこです。石破総理、石破内閣は法律守りますね?
— 大石あきこ れいわ新選組 衆議院議員 大阪5区 (@oishiakiko) May 9, 2025
石破総理:国民全て、法律は守っていかねばなりません。国会議員も閣僚も総理大臣も当然のことだと思っております。… pic.twitter.com/wAklJvoSEK
吉良「教員は8時間労働を守れなくて良いということか?」
— 吉良よし子 (@kirayoshiko) May 23, 2025
大臣「(まともに答えず)」
吉良「『勤務命令のない“時間外在校等時間”は労働時間ではない』などと言っているから訳がわからなくなる」
授業準備や部活など、教員の仕事を労働と認め、時間外の労働をゼロにする改革こそ
2025.5.22 文科委 pic.twitter.com/1VqazOq3bD
勤務命令のない “時間外在校等時間” は労働時間ではないとすると、ここ数週間勤務がスタートする前に割り当てられている、学年ごとの「運動会に向けてのライン引き(校庭)」の時間も「労働時間ではない」という位置付けなのでしょうか。そうすると、えっ、ボランティア?
訳がわかりません。
給特法改正案がこのまま通過したら、教員の異常な働き方(工藤祥子さん曰く「1ヶ月以上の病気休暇取得数は全教育職員の1.42%、民間は0.6%」云々)が、嶋﨑量さん曰く「2032年まで固定される」とのこと。くどうさんが大切にしている《わざわざ額に入れて飾ろうとしないだけで、どんな人の周りにもたくさん》あるという「さりげない日常の場面」が、訳のわからない法体系の下で、これからも浸食され続けるということです。
やれやれ。
くどうれいんさんの『虎のたましい人魚の涙』を読みました。表題作の「虎のたましい人魚の涙」を含む、全23編のエッセイ集です。前回のブログで紹介した『うたうおばけ』と同様に、死ぬまで続く長い実話としての生活が《額》に入れられて収録されています。額を額たらしめているのは、もちろん、歌人でもあるくどうさんならではの言葉です。
例えば、この2つ。
わたしはくやしかった。くやしくて、みじめで、はずかしかったことを十代のわたしは、都会め、と思った。
一枚のパイを大事に持ち帰ろうとした自分がますますみじめで、自室でひとりきり、粉々になったパイを一気に口へ入れて噎せびながら食べた。バターの深い香り。銀座め。と思った。
どちらも表題作の「虎のたましい人魚の涙」より。《都会め、と思った》は「、」なのに、《銀座め。と思った》は「。」になっているのはなぜだろうというA型的な「?」はさておき、その心情の伝え方のうまさに、「れいんめ」と思います。おばけも虎も人魚も《額》の中で「れいんめ」と思っていることでしょう。
『うたうおばけ』との大きな違いはといえば、《四年勤めていた会社を退職した》で始まるエッセイ「おめでとうございますさようなら」がラストを飾っていることから生まれる効果でしょうか。
わたしは川沿いの喫茶店へ向かった。仕事を辞めたらそのままその足で川沿いの喫茶店へ行き、銀泥の木の下のベンチで大きなジョッキのビールを飲むと決めていた。十五時を過ぎた空の強い日差しはあたたかく、空は引き続きぎょっとするほど青い。うそみたいな青空。うそみたいな退職。うそみたいな人生。いま、いまが、いまじゃなくなるなら、いまのわたしが、いまのわたしで、いまを書く。いまはこれから。
最後にこのエッセイが来ることで、他のエッセイが長いプロローグのように読めるんです。会社を辞めて筆一本で生きていく(!)という決断に至るまでの長いプロローグです。その長いプロローグが、うそみたいな青空、うそみたいな退職、うそみたいな人生を「まこと」にしているように読めて、走馬灯のようにそう読めて、それこそ「れいんめ」と思います。
れいんめ。
最後に「れいんめ。と思った」エッセイをもうひとつだけ紹介します。以下、エッセイ「あっちむいてホイがきらい」より。
「ごめんね。ぼくはともだちがほしいんだ」
と、彼はそう言ってわたしの手をわたしのベッドに戻すと、布団にもぐる音がした。右手だけがベッドの上で冷えていくのを感じながら、しばらくその意味を考えていた。
インターネットで知り合った彼が、初対面の次、すなわち2回目のデートのときに、早速著者の部屋に来てベッドイン。しかし、大人が想像するようなことは何も起きず、「ごめんね。ぼくはともだちがほしいんだ」って、
うそみたいな展開。
『うたうおばけ』のあとがきに《連載時、「実話ですか?」と訊かれることが多かったのですが、それだけ他人から見るとうそみたいな本当の生活を送っていると思うとぞくぞくします》と書かれていたことを思い出します。
実話ですか?
給特法改正案を考える院内集会にて、弁護士の嶋﨑量さんが「これだけ人が死んでいるのに、よくこんな法律を通せるな、恥ずかしい。あと何人殺せば気が済むんだ」と憤っていたことを、昨夜、100円ビールを飲みつつ、教員仲間に伝えました。メディアはほとんど報じませんが、過労死等にまつわる「実話ですか?」と訊きたくなるような悲惨な出来事が、学校現場ではたくさん起きています。くどうさんが額に入れて伝えたくなるような、うそみたいな本当の生活を、多くの教員が仕事を辞めることなく、身体を壊すことなく手に入れることができるよう、参院での審議(給特法改正案)がまともなものになることをただただ祈るばかりです。
何が在校等時間だ。
おやすみなさい。