つまり、僕は独立国家をつくったのだ。
自分の人生をただ自分の手でどこにも属さずつくりあげている。僕はそういう人間だ。
なぜ、そんな人生になってしまったのか。
それには理由がある。
それは、僕が幼い頃から抱えている質問に、誰も答えてくれないからだ。だから独立国家をつくり、自分でそれをひたすら考えている。
(坂口恭平『独立国家のつくりかた』講談社現代新書、2012)
おはようございます。上記の「質問」とも関係することですが、小学校の教員になったときに、とても気になる言葉がありました。それは「発問」という言葉です。先生たちは「今日の授業は発問がよかった」や「発問がわかりにくい」や「発問をどうしようか考えている」のようにしばしばこの言葉を使います。私は教育学部ではなく、工学部卒なので、学生時代には耳にすることのなかった「発問」という言葉。
問いを発すると書いて、発問。
問いを発するのは教師です。ほとんどの場合、子どもは問いを発する主体としては想定されていません。しかも教師は答えを知っています。
社会科の授業などで「学習問題」と称して「クラスの問い」を立てるケースはあるものの、「みんな違って、みんないい」はずの子どもが40人もいるのに「クラスの問い」だなんて、おかしい。にもかかわらず「みんなはこのことを知りたいんだね」なんて恥ずかしげもなく話している先生を見ると、ちょっとしたゾワゾワを感じます。みんなって、誰だ(?)。自ら課題を見つけることなどをねらいとしている「総合的な学習の時間」も似たり寄ったり。
坂口恭平さんのように、幼い頃から「なぜ人間だけがお金がないと生きのびることができないのか。そして、それは本当なのか」や「庭にビワやミカンの木があるのに、なぜ人間はお金がないと死ぬと勝手に思いこんでいるのか」などの問いを抱えている子にスポットライトが当たることはまずありません。発問は教師がするものだからです。
小中高とその状態が続き、大学の研究室に入ってから突然「ところで、あなたは学問の名に値するどんなユニークな問いをもっていますか?」なんて聞かれても、答えられるわけがありません。
後年、佐伯胖さんの『「学び」を問いつづけて』を読み、同じようなことが書かれていて、ちょっと安心しました。曰く《わたしがまだ教育界の特殊用語に馴じんでいなかった頃、「発問」ということばを耳にしたとき、それは当然子どもの側からの発問だと信じて疑わなかった》云々。
公文書改竄や税金の私物化など、現在、日本が独立国家(或いは民主主義国家)の体をなしていないように見えるのは、もしかしたら子どもたちの「問い」を蔑ろにしているからかもしれない。そんなことを考えながら、坂口恭平さんの話を聞きに、青山ブックセンターに向かいました。
昨夜、青山ブックセンターで行われたのは「トーク+いのっちのワークショップ+歌 =『まとまらない人 坂口恭平が語る坂口恭平』刊行記念イベント」です。一昨日の土曜日は学芸会だったので、明日は振替休日。明日も休みだ~、しかも都会だ~、という解放感とともにリラックスした状態で坂口さんのまとまらない話に耳を傾けることができました。
歌で始まり、歌で終わった刊行記念イベント。坂口さん、文や絵だけでなく、歌も本当にうまくて、思考もそうですが多才な人だなぁと改めて思いました。多才だからまとまらないんですね、きっと。野球だけ、とか、~だけ、ではなく、子どもの頃はみんな歌ったり踊ったり絵を描いたり、いろいろなことを自然と楽しんでいたんですよ、という話も頷けます。そんな話も含めて、ヘッドロココとかパズーとか植字工とか、カオスのような語りから次々と「メモをとりたくなる話」が生成されていった1時間半。心に刺さった言葉をいくつか書きとどめておきます。
〇 人には全く興味がない。なぜなら他人だと思っていないから。
〇 自我はない。
〇 つじつまは合わせなくていい。
〇 やりたいことなんて見つけなくていい。
〇 やりたくないことをしないことが大事。
隣の席に座っていた人となかよくなって、帰路、短い時間でしたが、一緒に飲みました。仕事に悩んでいるとのことで、坂口さんの「やりたいことなんて見つけなくていい。やりたくないことをしないことが大事」という言葉に救われたと話していました。坂口さんがずっと続けている「新政府いのっちの電話」のイベントバージョンですね。新刊の『まとまらない人』もそういった役割を果たすのだろうな。
なぜやりたくないことをやっているのだろう。
なぜ振替休日なのに仕事をしているのだろう。
問いを熟成させること。
感謝。