臨床家としての僕の第一原則は、「治療よりも自分の健康や生活を優先する」です。部分的にはボランティア的な活動もしてはいますが、治療である以上は応分の謝金はいただきますし、帰宅時間を何時間も遅らせてまでクライエントに対応することもしません。僕自身が疲弊しダウンしてしまったら、そちらの悪影響のほうがずっと大きいと考えるからです。恭平さんも基本的にはそういう発想ですよね。そこが信頼できる。自分の生活を犠牲にした奉仕的な支援活動は、「支援とはそうあるべき」というありがちな誤解を招きますし、後続者に対して抑圧になりかねません。そういう人の活動美談まで否定するつもりはありませんが、美談とはそもそも例外的なものであって一般化できません。
(斎藤環 ⇔ 坂口恭平『いのっちの手紙』中央公論新社、2021)
こんばんは。師走だからでしょうか。忙しすぎて心と体が悲鳴を上げています。11月末に修学旅行が終わったばかりというのに、保護者会や土曜公開授業など、帰宅時間を何時間も遅らせなければいけない仕事が12月も目白押しで、まるで縦走でもしているかのよう。最大の山は通知表の所見でしょうか。先の埼玉教員超勤訴訟で、司法は通知表の作成にかかる時間を「1人40分」と判断しました。私のクラスは39人いるので単純計算26時間かかります。
26時間。
休憩時間は全国平均で1分しかなく、授業の準備時間はこれも司法の判断で1コマ5分が妥当とされる中、26時間って、えっ(?)。しかも今月は代休なしの土曜授業が2回もあります。想像するに、何だか苦しくなってきました。
苦しい時は電話して。
ただし、電話をしたとしても傾聴してもらえるわけではないようです。寄り添ってもらえるわけでもないようです。坂口恭平さんが個人で続けている自殺予防の電話相談、いのっちの電話。傾聴してもらえると思いきや、寄り添ってもらえると思いきや、過日の新聞報道によると、死にそうになっているのに論破されてしまうとのこと。
えっ、論破?
精神科医の斎藤環さんと独自の方法で躁鬱病を克服しつつある坂口恭平さんの『いのっちの手紙』を読みました。斎藤さんが問い、坂口さんが答える。精神医学の常識を覆すようなことをしている坂口さんを、斎藤さんが徹底的に探究している「往復書簡」です。
治療上のヒントを得るために、或いは病跡学的な関心ゆえに、斎藤さんが特に興味をもったというのが「いのっちの電話」と「自己治療=創作活動」です。
そこで第一の質問です。恭平さんが「いのっちの電話」を受けるときに、大切にしている姿勢はどのようなものでしょうか?
精神科の患者さんが電話番号を公開して自殺相談なんてやったら、普通は共感疲労で燃え尽きてしまうそうです。でも、坂口さんは違う。斎藤さんの目には、いのっちの電話が坂口さんを元気にしているように映る。それはなぜか、という問いです。なぜに対する坂口さんの返答を読みながら、これはそのまま教員が「保護者の電話」を受けるときに大切にすべき姿勢だなと思いました。大前提として、
傾聴ではない。
学校現場は傾聴がデフォルトです。そのための研修もあります。しかし傾聴したために病んでしまった同僚をこれまでに何人も見てきました。担任が病んでしまったら元も子もないのに、傾聴が誤解され、学校がただのサンドバッグになっているがゆえの悲劇です。ちなみに斎藤さんが言うには精神科医や心理士の一部も傾聴を誤解しているとのこと。曰く《「何でも受容」という発想は一種の思考停止に思える》云々。その通りです。めちゃくちゃなことを言ってくる保護者の話に耳を傾けて帰宅時間を何時間も遅らせている場合ではありません。悪意を感じたら塩対応でOK。そもそも司法は保護者対応は教員の仕事ではないと判断しています。つまりボランティアです。無料でやっている坂口さんと同じということです。だから以下のような姿勢が必要です。
話はまず聞くけど、最後までは聞かずに、恭平の言葉を出しているように見えるから、いわゆる傾聴とは違うような気がする。時々は強い言葉で言ったり、厳しかったりするのを聞いてびっくりすることもある。そんなこと言って大丈夫なのかとドキドキすることもある。
坂口さんのパートナーであり、いのっちの電話をしばしば耳にしているというフーさんの感想です。強い言葉を口にしても最後には笑い合っているとのこと。要するに坂口さんのコミュニケーションの技法がピカイチだということですが、例外化ではなく一般化すると、ポイントは、その技法が傾聴ではなくダイアローグ(対話)だということです。
このダイアローグを支えているのが、例えば《とにかく自分に正直でいることを僕は一番最優先しています。僕が疲れていたら、疲れていると正直に話す。それしかないと思ってます》という線引きです。或いは《家族との食事や睡眠などは、電話よりも優先する(ことが多い)》という線引きです。疲れていたら、せっかくの技法が台なしになってしまいますから。教員も、仕事の線引きを徹底すればいい。働き方改革のためにはそれしかないと思っています。
ここでの恭平さんの技法は、確かにいわゆる「傾聴」や「対話」そのままではありません。恭平さん自身が書かれているように、時にはクライエントの話の腰を折るし、どんどん提案やアドバイスをしますよね。ネガティブな思考の反芻を止めるために、ときにはそれこそ「論破」もするでしょう。表層的にみれば傾聴や対話とは異なっていても、しかし内実はすごく対話的です。どうしてそんなことが可能なのか。
どうしてそんなことが可能なのかは実際に本を手にとって読んでみてください。ちなみに対話の先には「学問のすゝめ」ならぬ「創作活動のすゝめ」があります。坂口さんが相談者に「家族のためにシフォンケーキを作ったらどう?」などと提案します。これが斎藤さんの興味のその2にあたる「自己治療=創作活動」です。つまり対話を通して相談者の人となり(料理好き、等々)をとらえ、最終的にはオーダーメイドの創作活動をもちかけるというのが坂口さんの「いのっちの電話」というわけです。
いのっちの電話=対話+創作活動のすゝめ
坂口さん自身が創作活動によって躁鬱病を克服しかけていることから導き出された経験に基づくハッピーセットです。斎藤さんは「いのっちの電話」のことを自身の仕事のひとつである「オープン・ダイアローグ」と重ねて「クライエントの欲望創り」と表現しています。それを「子どもの興味・関心創り」と言い換えれば、教員がやっていることも坂口さんや斎藤さんと同じような気がしてきます。いのっちの電話が坂口さんを元気にしているように見えるのは、子どもたちが教員を元気にしているように見えるのと同じかもしれません。
最後に坂口さんの「おわりに」より。
僕は最近、死にたい人は実は退屈しているだけではないかという、目を覆いたくなるような安直な、仮説を立ててしまってます。おそらく退屈は、太古の昔から重大な問題だったはずです。僕もなぜ作っているのかと問われたら、作らないと退屈だから、と答えてしまいそうです。
國分功一郎さんの『暇と退屈の倫理学』を想起させる仮説です。國分さんは『暇と退屈の倫理学』の中で《教育は以前、多分に楽しむ能力を訓練することだと考えられていた》というラッセルの言葉を引いています。坂口さんの言葉と合わせると、死にたい人には、多分に楽しむ能力が欠けているのではないか。子ども時代に、多分に楽しむ能力を訓練してこなかったのではないか、となります。学校は傾聴だけでなく、
教育も誤解しているかもしれない。
おやすみなさい。