田舎教師ときどき都会教師

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坂口恭平 著『よみぐすり』より。楽しさの伝授こそが教育じゃないのかねえ?

親たちよ、まずは自分が楽しもうぜ。楽しくないやつがなにを忠告しても、それに従ったらただの楽しくない退屈な人生しかないと子どもは感じるだけだから、いうこと聞くはずがない(笑)。楽しいことには敏感よ、子どもたちは。なぜなら自然の人間は楽しむことしかしないから。社会の大人たちが異常なのである。
(坂口恭平『よみぐすり』東京書籍、2022)

 

 おはようございます。親たちよ、まずは自分が楽しもうぜということで、昨日は午前中から夕方にかけて、教員養成系の大学で働いている先生との1on1を楽しみました。学期末の忙しさで疲れ果てていたということもあって、いわば「はなしぐすり」と「ききぐすり」です。こうしてブログを書いている今は「かきぐすり」といえるでしょうか。

 

 多様性を書くのは難しい。

 

 途中、そんな話になりました。ゴールとプロセスは本来多様であるはずなのに、各自治体は「求める教師像/求められる教師像」というゴールを決め、キャリアステージをつくってプロセスまで管理しようとします。子どもと同様に、大人だって成長の仕方は人それぞれなのに。みんなちがって、みんないいのに。教育学者の佐藤学さんが『学校見聞録』に《よい学校の姿は多様であり、よい学校の数だけある》と書いているように、よい教師の姿だって多様であり、よい教師の数だけあるのに。行政の立ち位置としてわかりやすいかたちで説明責任を果たさなければいけないのはわかります。が、ネタがベタになってしまっては本末転倒です。ネタでしょうかっていうと、ネタだよっていう。ベタでしょうかっていうと、ベタだよっていう。そうしてわけがわからなくなって、ライフステージごとの育成指標なんて提示されるものだから、どっちでしょうかっていうと、ベタだよっていう。

 

 大切なのは、多様性。

 

 東京書籍からも本を出版するようになった坂口恭平さんの存在がその証左でしょう。求める教師像/求められる教師像は「まとまらない人」を公言する坂口さん。そうすれば、多様性を書いたことになるかもしれません。

 

よみぐすり

よみぐすり

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 坂口恭平さんの『よみぐすり』を読みました。坂口さんの本が東京書籍から出るなんて、もしかしたら教科書デビューも近いのかもしれません。国語の教科書に『幻年時代』、家庭科の教科書に『cook』、図工の教科書に『Pastel』、道徳の教科書に『苦しいときは電話して』、保健の教科書に『よみぐすり』、そして総合的な学習の時間に『まとまらない人』なんてのはどうでしょうか。

 

www.countryteacher.tokyo

 

 新刊『よみぐすり』は、坂口さんの Twitter でのつぶやき(2021年4月27日~2022年3月31日)を抜粋し、再構成した一冊です。膨大なつぶきの中からピックアップするときの基準は、

 

「死にたい」に変わる言葉たち。

 

 ノーベル平和賞を受賞してもいいのではないかという「いのっちの電話」を続け、たった一人で何万人もの命を救っている坂口さんならではの言葉がズラッと並びます。いのっちの電話が「はなしぐすり」&「ききぐすり」とすれば、読めば読むほど「死にたい」が遠景に退いていくこの本は、まさに「よみぐすり」です。

 

 例えば、これとこれ。

 

おばちゃんたちが鬱っぽいとか落ち込んでるとか言うと、すーぐ精神科医たちは精神安定剤とか出すんだから・・・・・・。やめて~。それ鬱じゃなくてほぼみなさん退屈してるだけです!「いのっちの電話」調べだから信用はできませんがね!家事ほっぽりだして好きでもないお父さんにご飯作るのもやめて、今すぐ楽しもう。

 

大人になるってのは、大人にもなる、ってことで、子どもを消すってことじゃなくて、大人にもなるってことで、子どもの自分を優しく厳しく、でも全体はすべて信じてあげる大人になって、その子どもの自分を死ぬまで励まし、高めていってあげるってこと。今の大人は子どもの自分を消してるからつまらんのよ。

 

 冒頭に引用したつぶやきと重なる話。もっと大人が楽しまないと、世の中の「死にたい」はなくならないというメッセージです。昨日話をした大学の先生が楽しすぎたのは、きっと子どもの自分を消していないからだろうなぁ。國分功一郎さんの『暇と退屈の倫理学』を引きつつ、やりたいことがありすぎて「暇も退屈もない」って話していましたから。

 

 子どもを消さないこと、楽しむこと。

 

子どもがなんでこんなにも自殺するようになったのかを、大人はちゃんと考えるべきだ。生き延びるための楽しいとっておきの技術の伝達が途絶えているからだ。

 

 その國分さんの『暇と退屈の倫理学』には、イギリスの哲学者バートランド・ラッセルの《教育は以前、多分に楽しむ能力を訓練することだと考えられていた》という言葉が引かれていて、それは坂口さんの《楽しさの伝授こそが教育じゃないのかねえ》というつぶやきと同じで、やはり私たち教員は平日の朝夕夜に無賃残業なんてしている場合ではないし、休日に通知表の所見なんて書いている場合でもない、と思います。定時にとっとと帰ってライフを満喫してそこで得た「楽しさ」を子どもたちに還元した方がいい。教員の多くがそうすれば、教室に多様性が生まれます。知らない誰かが設定したゴールやプロセスなんて、ネタなんだから無視していい。ベタに従っている場合ではありません。坂口さんが《みんな人から頼まれた仕事とかにうつつを抜かして真剣になりすぎると馬鹿になるから気をつけよう》とつぶやくように、気をつけないと馬鹿になってしまいます。では、馬鹿にならずに、鬱にもならずに、そして死にたくもならずに、楽しむための方法とは?

 

 手を動かす。

 

 手を変え品を変え言葉を変えて、坂口さんは「手を動かす」ことを何度もすすめます。掃除もそのひとつ。そんなわけで、

 

 これから掃除です。

 

 よい休日を。