田舎教師ときどき都会教師

テーマは「初等教育、読書、映画、旅行」

猪瀬直樹 著『禁忌の領域』より。政治と反社という「禁忌の領域」の存在を預言していたタイトル。ニュースの考古学って、すごい。

 取材に受け応えしながら、いっぽうでこの女性の年齢はどのぐらいなのだろうと思いめぐらせていた。年齢を訊くのは失礼なので、あとで調べた。五十八歳とわかった。
 日本で五十八歳の現役女性記者が何人いるだろうか。しかもテーマを見つけたら、さっとニューヨークから東京まで、働き盛りの商社マンのようにひとっ飛びでやってくるような女性記者が、である。
 ~略~
 アメリカはベテラン記者があたりまえに活躍するのに、日本ではどうして若い記者しか現場に行かないのだろうか。そういうシステムによってもたらされる弊害について考えてみたい。
(猪瀬直樹『禁忌の領域』文藝春秋、1993)

 

 こんばんは。私の師匠の一人は58歳で、ありとあらゆる出世の誘いを断わり、ベテラン担任を続けています。そして毎年のようにクラスづくりの極意を同僚や保護者に提示し続けています。だから《若い記者しか現場に行かない》弊害は何となく想像できます。単純に、58歳のベテランが現場でその道のプロとして自由闊達に仕事をしていると、勇気づけられるんですよね。

 作家の猪瀬直樹さんが、冒頭の引用に続けて《いまの朝日新聞の幹部に訊いても、こういうシステムは問題だ、とはいうけれど誰も変えようとはしない。彼らはそれで自足していればよいかもしれないが、国民は困る》と書いたのは93年4月8日です。30年近くも問題を放置してきた結果が、現在の「政治と反社」の問題につながっているのだとしたら、ほんと、国民は困ります。もしも新聞社のシステムが、どこかの時点で《終生現場にいて自由に歩き回り優れた記事(作品を含む)を書くほうに名誉(高給も含む)を与える》アメリカ式のそれに変わっていたとしたら、「政治と反社」についての優れた記事や作品によって、日本はもっとまともな社会をつくっていたかもしれません。

 テレビ局にも同じ問題があるということを、以前、ネットにアップされていた「日経テレ東大学」の中で、猪瀬さんがズバッと指摘していました。曰く「自分を消して番組をつくっているのはいったい何なのか」と。優れた記事(作品を含む)を書くことに名誉が与えられない新聞社と同様に、テレビ局においても優れた番組(作品を含む)をつくることにインセンティブは働いていないということです。学校に置き換えると、

 

 自分を消して授業をつくる。

 

 いやだなぁ。

 

 

 猪瀬直樹さんの『禁忌の領域』を読みました。週刊文春に連載された「ニュースの考古学」の1年分(1992年8月~1993年7月)を集めた一冊です。「ニュースの考古学」シリーズとしては「Ⅱ」に当たります。ちなみに「Ⅰ」が『ニュースの考古学』で「Ⅲ」が『ニュースの考古学3』、「Ⅳ」が『瀕死のジャーナリズム』です。

 

www.countryteacher.tokyo

 

 目次は以下。

 

  War 戦争
  Autumn ’92 秋
  Winter ’92ー’93 冬
  Spring ’93 春
  Summer ’93 夏 

 

 禁忌の領域というタイトルが、予言のようで、実にふるっています。現在の「政治と反社」の問題がまさにそれだからです。この「大当たり」のタイトルについて、猪瀬さんはあとがきにこう書いています。

 

 どの社会の中心にも決して表には出て来ない暗黙の了解というものが渦巻いている。とくに単一民族幻想に縛られている日本語の世界では、この暗黙の了解、すなわち〈禁忌の領域〉の閉める比重は小さくない。

 

 小さくないということを証明したのが、自民党であり、統一教会でしょう。以下は92年10月15日付けのコラム「メディアが『裁く場合』について」より。猪瀬さんはこのときすでに統一教会の胡散臭さを感じ取っています。

 

 いくら統一教会が胡散臭くても、信仰の自由があるから、司法はせいぜい霊感商法ぐらいしか裁いてくれない。それも氷山の一角でしかない。だがメディアは、統一教会そのものに対する不快感を代弁してくれる。

 

 代弁の度合いが足りなかったのか、あるいは足りすぎたのか。いずれにせよ、その後統一教会が霊感商法すら裁かれないような「禁忌の領域」に潜ってしまったのだから、代弁の仕方が適切でなかったことは確かです。現在、メディアによって再び裁かれつつありますが、同じ轍を踏まないためにも《そこになにが反映されているか》を紐解いていく「ニュースの考古学」の視点を大切にしてほしい。

 

 日々のニュースには水脈がある。

 

 各々を辿っていくと、しばしば水源となっている共通の歴史に出会えます。例えば新聞社とテレビ局に関するニュースの水脈を辿ると、戦後、GHQが標榜した放送の民主化が、郵政省によって骨抜きにされてしまったという「歴史」に出会えます。新聞記者が若いときにしか現場に行かないのも、テレビ局のプロデューサーが自分を消して番組をつくっているのも、朝日新聞とNHKが統一教会の報道に及び腰なのも、それから「権力の弾圧に対して不偏不党であることを貫け」という放送法の本来の主旨が蔑ろにされているのも、水脈を辿れば「郵政省が放送免許の許認可権を握るようになった」という残念な歴史にぶつかるというわけです。

 

 だが放送の民主化の最大の眼目は、単に軍国イデオロギーという過去の否定ではなかった。言論の自由の保証こそが、ファシズムに対する抑止力だとする思想である。行政機構が電波の特認可権を握れば、放送は利権と偏向の場になる恐れが生じる。

 

 92年9月17日のコラム「視えない『規制』について」より。恐れが現実になった結果が「瀕死のジャーナリズム」であり、禁忌の領域における自民党と統一教会のやりたい放題でしょう。

 

 禁忌の領域は「政治と反社」だけではありません。

 

 詳しくは読んでみてください。