田舎教師ときどき都会教師

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猪瀬直樹 著『瀕死のジャーナリズム』より。宗教法人を甘やかすことが民主主義の実現ではない、という四半世紀前の著者の言葉が重く響く。

 その意味において、戦争責任の問題で言論の弾圧だけに言及してしまうのは、検証が甘すぎるといわざるをえない。戦前・戦中には、言論の自由が制限されたことは確かだが、軍部の発表をいわば ”あうんの呼吸” でそのまま記事にしていた。新聞側の取材姿勢にも問題があったのだ。そして、この問題は現在でも一貫して存在している。
 たとえば、いまの記者クラブの存在だ。現在の行政官庁と記者クラブの持ちつ持たれつの関係は、戦前・戦中の軍と新聞の関係とまったく同じなのだ。戦前・戦中に軍からの発表情報を垂れ流していたように、現在の新聞も各社横並びで、行政官庁の発表を平然とそのまま記事にしている。
(猪瀬直樹『瀕死のジャーナリズム』文藝春秋、1996)

 

 こんばんは。もしも日本のジャーナリズムが瀕死の状態から回復していたら、安倍晋三元首相が長期政権を維持することも、昨日の惨劇もなかったように思います。作家の猪瀬直樹さんが「週刊文春」に「ニュースの考古学」の連載を開始したのが1991年の8月。30年以上も瀕死のままということはあり得ないので、おそらくはもう死んでいるのでしょう。

 

 例えば「みなさまのNHK」。

 

 なぜ、参議院選挙の前日というこのタイミングで安倍元首相の追悼番組(NHKスペシャル、午後8時~)なんて放送したのでしょうか。あうんの呼吸でしょうか。選挙特番でもやればいいのにって、そう思っている「みなさま」がたくさんいるはずです。NHKを観るよりも、猪瀬さんがやっている「猪瀬チャンネル」や、神保哲生さんと宮台真司さんがやっている「マル激トーク・オン・ディマンド」を観た方がよほどいい。故・立花隆さんの『田中角栄研究』を例に挙げるまでもなく、日本の場合、昔も今もジャーナリストとしてのプロフェッショナリズムを体現しているのは、組織ではなく、

 

 個人。

 作家・猪瀬直樹さんの『瀕死のジャーナリズム』を読みました。週刊文春に掲載されていた「ニュースの考古学」の「Ⅳ」にあたる一冊です。考古学の意味するところは、著者曰く《連載で「ニュース」に「考古学」と銘打ったのは、その場でただ消費されるつもりではなく防腐処理を施すためである。僕としてはニュースそのものよりも、そこになにが反映されているか、ということのほうにつねに興味がある》云々。防腐処理が施されているため、過去のニュースについて書かれたどの文章も「NEWS」なのに古びれていないということです。

 

 目次は以下。

 

 Ⅰ オウム真理教事件を読み解く
 Ⅱ 殺人事件の ”量刑の相場” 
 Ⅲ TBS問題を考えるあ
 Ⅳ 衰弱するジャーナリズム
 

 昨日の凶行との関係でいえば、「Ⅰ」に出てくる「課税されない宗教法人の『治外法権』」と名付けられた96年4月13日の記事が、考古学としての価値をよく伝えているように思います。

 

 宗教法人法の見直しについて、国会は及び腰である。宗教法人は、選挙の票を動かす巨大な圧力団体に成長したからだ。僕はやみくもに宗教法人を否定しているのではない。公共の福祉は国家予算で行われるだけでなく、慈善事業などさまざまな宗教的な活動によっても実現される。だが宗教活動と収益事業は区別されなくてはならないし、それどころか宗教活動を隠れ蓑にした脱税行為がまかりとおっているのはおかしい。

 

 96年なので、もちろんオウム真理教がらみの「考古学」です。戦前、国家権力が宗教団体を徹底的に弾圧した歴史があることから、その反動で、戦後は《なんでもあり》になってしまったというのが猪瀬さんの見方・考え方です。日本の戦後民主主義を指導した当のアメリカではそんなことはないのに。猪瀬さんは《つまり、宗教法人を甘やかすことが民主主義の実現ではない、ということだ》と書きます。

 

 甘やかした結果、オウムが生まれた。

 

 給特法で学校の管理職を甘やかした結果、カローシが生まれた。そんなふうにパラフレーズすることもできますが、それはさておき、安倍元首相を銃撃した山上徹也容疑者は、ある宗教団体への恨みを漏らしているとのこと。その宗教団体を甘やかした結果が、民主主義の根幹を揺るがす昨日の蛮行の一因だったとしたら。メディアに関連づけていえば、各社横並びで名前を伏せて報道するくらいに甘やかしている結果がその一因だったとしたら。宗教法人を甘やかすことが民主主義の実現ではないという、四半世紀も前の猪瀬さんの言葉が古びれることなく重く響きます。

 

 なぜ、名前を伏せるのか。

 

 この件に限らず、モリ・カケ・桜なども含めて、なぜ、私たちの「知る権利」が矮小化されるのか。

 

「言論およびプレスの自由は、これを保障する。この自由には、公務員、公の機関もしくは公の行為を批判する権利が含まれる」

 

 これは日本国憲法第21条の作成を担当したアルフレッド・ハッシー中佐の覚書だそうです。猪瀬さんは、私たちの「知る権利」が矮小化されているそもそもの理由として、この言葉をたびたび引いています。日本国憲法第21条に書かれている「言論、出版その他一切の表現の自由は、これを保障する」の「出版の自由」は、ハッシー中佐いうところの「プレスの自由」の日本語訳としては足りなかった。正しくは「取材の自由」と「報道の自由」だった。すなわち、

 

 「行政情報へアクセスする自由」だった。

 

 行政情報へアクセスし、国家権力が隠そうとする情報を市民に周知徹底することこそが、ジャーナリズムの存在理由です。そのレーゾンデートルが「出版の自由」という狭い意味での翻訳によって、最初から矮小化されてしまっていたというわけです。これぞニュースの考古学。

 

 明日は参院選です。

 

 おやすみなさい。