田舎教師ときどき都会教師

テーマは「初等教育、読書、映画、旅行」

岡真史 著『〈新編〉ぼくは12歳』より。ぼくはしなない。なぜならば……。

ぼくはしなない

ぼくは
しぬかもしれない
でもぼくはしねない
いやしなないんだ
ぼくだけは
ぜったいにしなない
なぜならば
ぼくは
じぶんじしんだから・・・・・・・・・
(岡真史『〈新編〉ぼくは12歳』ちくま文庫、1985)

 

 こんばんは。先日、授業でコラボしている大学の先生が、新年会の席でこんなことを言っていました。曰く「人間だけが、死ぬことができる」云々。それから、同じテーブルを囲んでいた某・作家さん曰く「臨床にはエロスがある」云々。臨床 ≒ 現場です。

 

 種々、考える。

 

 こういった言葉に反応してしまうのも、人間だからでしょう。人間以外の動物は、自ら命を落としたり、ジョルジュ・バタイユのエロティシズム論に反応したりしません。人間だけが思考を止めることができない。なぜならば、人間は、考える葦だからです。

 

 

 岡真史くんの『〈新編〉ぼくは12歳』を再読しました。昔々、ICU高校(国際基督教大学高等学校)を受験したときに、この本に載っている詩が国語の問題に出てきたんですよね。出題されたのが何の詩だったのかは覚えていませんが、本のタイトルが印象に残って、後日購入しました。で、受験は不合格。

 

 で、何度か紛失。

 

 授業で子どもたちに紹介するために、自宅から教室、教室から自宅へと持ち運んでいるうちに、いつの間にかなくなっているから不思議です。キャリアパスポートなどという、保管したり進学先に送ったりすることに多大な労力を費やすBSJ(くそどうでもいい仕事)が増えているからでしょうか。あるいは、

 

 ゆうれいかな?

 

ゆうれいかな?

なぜなんだろう
あいつの前って
ゆうれいがいるのかナ?
悪口をいわせる
ゆうれいが
まったくあいつは
ちょうのう力者

またたくまにぼくの目は
光をうしなう
たのしさをわすれる
まったくあいつは
チョーノー力者

 

 こういった詩が66編収録されています。昨年、また買い直して、また子どもたちに紹介しました。教科書に載っている宮越由貴奈さんの『電池が切れるまで』と合わせて、道徳の「生命尊重」の授業にはうってつけの一冊です。

 詩の作者は当時12歳だった岡真史くん。享年12歳9ヶ月(1962-1975)。冒頭に引用した詩を最後に、岡くんは、地元であり私の故郷でもある小平市で自ら命を絶ちます。

 

 大空に身を投げて。

 

「ぼくは/死なない/なぜならば/じぶんじしんだから・・・・・・・・・」という、恐らく、最後に書いたであろう、詩の言葉を見て、私たちは、もう、どうしようもなく、泣きました。これは何か、ということを、思い、悩みました。お手紙を下さった方の中にも、”なぜ、死なない、と云っていながら、死んじゃったのですか。それが、私には、わかりません” と、書かれた方もありましたが、私たちにも、それは、わかりませんでした。

 

 岡くんの母親である岡百合子さんの言葉です。新編には、岡くんの詩だけでなく、両親と読者との往復書簡が併収されています。

 

 これは何か。

 

 岡くんが、最後に強調した「じぶんじしんだから・・・・・・・・・」という死なない理由・・・・・・。人間が、考える葦であるということをこれ以上ダイレクトに表現している一文はないように思います。

 

 「じぶんじしんだから・・・・・・・・・」死なない。

 

 でも、だからこそ、大学の先生が話していたように「人間だけが、死ぬことができる」。逆説的に、「じぶんじしん・・・・・・」と極限まで思えてしまうからこそ死ぬことができる。この理路、ピンとくるでしょうか。

 某・作家さんが説明していた「エロス」の話とも重なります。フランスの哲学者ジョルジュ・バタイユの考えでは《エロティシズムとはわれわれ自身の主観性の限界へ向かおうとする運動であり、合理的世界を解体する侵犯行為なのである》(Wikipedia)とのこと。岡くんの頭の中でも主観性の限界へ向かおうとする運動が起こっていたのでしょう。その結果として、合理的世界を解体する侵犯行為としての「死」を選択してしまったのでしょう。なぜそれが「死」でなければいけなかったのか。それは岡くんにしかわかりません。岡くんもわかっていなかったかもしれません。そのわからなさが「エロス」であり、だからこその「臨床( ≒ 現場)にはエロスがある」です。学校の授業にも、家庭での子育てにも、エロスがある。わからなさがある。つまり、

 

 思いがけずエロス。

 

人間

人間ってみんな百面相だ

 

 みんな百面相だからこそ、授業中に思いがけずエロスが生まれることがあって、誤解されそうなので別の言い方をすると、合理的ではないことが起きたり、イメージしていたこととは違うコミュニケーションが生成されたりすることがあって、例えば「意外と子どもたちは詩に興味を示すんだな」とか「こんな話を子どもたちは喜んでくれるんだな」みたいなことがあって、私たちはそこに生きる意味を見いだしたり、その意外性から生きている実感を得たりします。東浩紀さんでいえは「郵便的誤配」につながる話だし、近内悠太さんでいえば「贈与」につながる話といえるでしょうか。

www.citrussin.com

 

 ハテナブログの文章に傍点を付けるためにはどうすればいいのだろうという「?」を検索したところ、思いがけず上記のブログが出てきました。有り難い。思いがけず利他。思いがけずエロス。そして思いがけずこんな時間(23時58分)です。

 

 明日になる前に。

 

 おやすみなさい。