田舎教師ときどき都会教師

読書のこと、教育のこと

大岡昇平 著『武蔵野夫人』より。戦争と平和。偶然と必然。

 勉は幸福であった。道子と二人でゆっくり歩くのは、二人がまだ恋を意識しなかった頃、野川を遡って以来である。
 勉はそれを道子にいわずにいられなかった。道子は「恋ヶ窪」で初めて自分の勉に対する感情を「恋」と呼んだ時のことを思い出した。あれからふた月と経っていない。それなのに自分はこんなに変ってしまった。それではあのころの生活はみな嘘で、今が本当なのだろうか。それとも今の苦しみが嘘で、あのころが本当なのだろうか。
 道子がこう反省している間、勉はしかしひたすら幸福に酔っていた。昔のわけ隔てのない親しさが、こうして二人で歩いていれば戻ってくるように感じる。なぜそれを「恋」と名づけて押し進めなければならないのだろうか。
(大岡昇平『武蔵野夫人』新潮文庫、1953)

 

 こんばんは。野川の水源は国分寺市にあります。西武国分寺線の駅名でいえば、恋ヶ窪はその国分寺の隣の駅。18歳まで住んでいた実家のアパートの最寄り駅が恋ヶ窪の隣の隣の小川駅だったので、恋ヶ窪と聞くと懐かしい気持ちになります。

 

小川駅の近くにある母校(2024.5.18)

 

 中学校のときの同級生が、しかも当時うっすらと恋心を抱いていた同級生が、もうあれからうん十年も経つのにわざわざ遠いところからやって来てくれて、ゲストティーチャーとして子どもたちに授業をしてくれるという、大岡昇平いうところの《運命はこうして人おのおのの必然に従って、人生の劇を織るのをやめない》を地で行く展開があった、

 

 令和6年度。

 

 その令和6年度も残すところあと28日(授業日数)となりました。4年生、5年生、6年生と、3年間一緒に過ごしてきた子どもたちとももうすぐお別れです。悲喜こもごもあったけれど、シェイクスピアの喜劇のタイトルでいうところの『終わりよければすべてよし』で、

 

 終わりたい。

 

 

 シェイクスピアの『終わりよければすべてよし』は「結婚の成就」がテーマになっている喜劇です。早速のネタバレになりますが、そしてこの後もネタバレが続きますが、大岡昇平の『武蔵野夫人』は「結婚の頓挫」がサブテーマになっている悲劇で、

 

 終わりよければすべてよし、の反対。

 

 

 大岡昇平の『武蔵野夫人』を読みました。武蔵野夫人こと道子(29)とその夫である秋山(41)、道子の近所に住んでいる富子(30)とその夫である大野(40)、そして道子のいとこである勉(24)の5人が、おのおのの必然に従って人生の劇を織り成す恋愛小説です。

 

 喜劇ではなく、色恋沙汰の悲劇を。

 

「人生は辛いものでしょう。戦争に行ったあなた知ってるはずよ」
「戦争は楽です。自分一人の命さえ守ればいい。駄目だったら死ぬだけの話だ」
「じゃ普通の生活は戦争より辛いのね。死ねばいいなんて通用しないわ。それはわからなくちゃいけないわ」

 

 道子と勉の会話です。戦争文学の金字塔と呼ばれる『野火』において、《戦争を知らない人間は、半分は子供である》と書いた大岡昇平が、さらに《戦争へ行くまで、私の生活は個人的必要によって、少なくとも私にとっては必然であった。それが一度戦場で権力の恣意に曝されて以来、すべてが偶然となった》と書いた大岡昇平が、戦争に行った勉に《戦争は楽です》と言わしめ、さらに武蔵野夫人、すなわち道子に「偶然」ではなく「必然」が織り成す普通の生活の方が戦争よりも辛いと言わしめているところに、この『武蔵野夫人』の本質が凝縮されています。つまり、

 

 平和なんです。

 

www.countryteacher.tokyo

 

 平和だけど、辛い。平和だから、辛い。なぜなら、道子も秋山も富子も大野も勉も、おのおのの「必然」に従って、現在でいうところの「自己責任」で、色恋沙汰に振り回されることになるからです。

 

「自分の奥さんのこと、そう軽々しくいうもんじゃないわ。あたしだって大野にそんなにいわれたらいやだわ」
「大野君はそうはいわないでしょうね、僕みたいに好きなひとがあるわけじゃないから」
「誰のこと、それ」
「あなた」
「お上手ね。あたし、そんなことはみんなにいわれつけてるんだから、効き目がないわよ」

 

 道子の夫である秋山と、大野の妻である富子の会話です。うん、平和です。うん、色恋沙汰です。軽々しい。とはいえ、そこはさすがの大岡昇平です。思わず、お上手ね、と言いたくなる心理描写が至るところに出てきます。例えば、人妻を好きになってしまった勉の「必然」を描いた次のくだり。

 

 道子の優しさがことに彼を傷つけたのは、彼女が秋山にも同じ優しさを示すように見えたことであった。

 

 例えば、コケットな女性として造形されている富子の「必然」を描いた次のくだり。

 

 富子はあらゆる男女の一対に恋を思う、その想像力の強さだけ嫉妬した。

 

 例えば、シェイクスピアの『お気に召すまま』に出てくる《この世は舞台であり、人は皆役者なのだ》という台詞を思い出させる、道子の「必然」を描いた次のくだり。

 

 ひとりで反省する時、ただ貞淑な妻を演じている不幸を感じる余裕のある道子が、勉に会えばその役割に固執せずにいられないのが、彼女の不幸な恋の特徴であった。

 

 どれも、巧い。

 

 大岡昇平は『武蔵野夫人』を書くにあたって、スタンダールやラディゲなどのフランス心理小説の手法を参考にしたそうです。参考どころか、完全に自家薬籠中のものとしているように読めます。念のため、それはいったいどんな手法なのかとXの生成AI「Grok」に尋ねたところ、スタンダールについては《登場人物の内面を深く掘り下げる心理描写や、感情と行動の葛藤を緻密に描く手法》、そしてラディゲについては《若者の情熱や不安をリアルに表現する簡潔で詩的な文体、禁断の愛や道徳的ジレンマの探求》と出てきました。心理描写なんて、まさに(!)。道徳的ジレンマも、まさに(!)。で、探求した結果、大岡昇平は5人にどのような「終わり」を用意したのか。

 

 終わりよければすべてよし、の反対。

 

 おやすみなさい。